税を取られる側の逆襲
名古屋革命では減税が大きな話題を呼びました。私達は、税の「取られ損」という意識、そして、取られる側の取る側への「妬み」について深く考えてこなかったのではないでしょうか。昔は年貢、つまりその年に「貢ぐ」、といった側面もあったわけです。この記事では減税に賛成か反対かではなく、税に対する民の想いについて考えて見たいと思います。
年貢は、領主が民に課した租税です。明治時代の地租改正で廃止というのが通常の理解ですが、そもそも地租改正は租税制度改革の一環でしかありません。つまり、年貢はいまだに続いているというのが私の考えです。
年貢…文字を良く見てみましょう。「貢ぐ」という文字は、あなたにはどう写りますか?
貢がれる側にいる人は支配者です。鍬を持たずともご飯を食べられます。
貢ぐ側にいる人は支配される者です。鍬を持たなければなりません。
税の再分配機能などという前に、そもそも税は、私達民にとっては「貢ぐものである」という意識が古来からあるという現実を私達は忘れてはなりません。
政治の諸分析のスタートは全てここからである…私は8年の市議活動を通じて、ようやくここにたどり着きました。貢ぐ側にとっては、貢がれた側の人間が偉そうなことを言っても響きません。名古屋革命は、貢ぐ側の魂の叫びが結実した瞬間ではないかと考えます。
貢ぐ側は、貢がれる側に何を期待するか?
1つは、減税でしょう。そしてこれ以上の増税、貢ぐ量増やしを絶対にゆるさないということでしょう。
もう1つは、貢いだものを勝手に使うことをゆるさないという点でしょう。
この根底にあるマグマは「妬み」です。
解散という結果を受けた名古屋市議の皆さんはぜひこの意識に目を向けて頂きたいと思います。所詮、鍬を持たずに食べてるだろう、おまえらは!というマグマは強烈です。そこに気付かない政治家が鈍感なだけです。
国政も地方自治も、貢ぐ側から見たら原理は同じです。鍬を持たない人が好き放題やっているというわけです。
鍬を持たない人が鍬を持つ人に、市民参加だの協働だの言っても響くわけがないのです。なぜなら市民参加、協働は、鍬を持たない人のエゴにしか過ぎないからです。
貢ぐ側の逆襲は始まったばかりです。