税を取られる側である民の代理人として、官を監視するのが政治家本来の仕事である。 | 半田伸明のブログ

税を取られる側である民の代理人として、官を監視するのが政治家本来の仕事である。

税は取られるモノであり、それを好きに使うのが官である。
http://ameblo.jp/handanobuaki/entry-10751701719.html

官僚について行きたい政治家達
http://ameblo.jp/handanobuaki/entry-10773605786.html

お願い受付マシーンの性能の差を問うのが市議会議員選挙になってしまっているというおかしな現状
http://ameblo.jp/handanobuaki/entry-10781370649.html


前回のエントリーで、民寄り政治家連合の提唱をしましたが、前提として、民の集合的無意識、一般意志は何を求めているのか?につき書いてみたいと思います。


私達庶民は、一方的に官に税金を取られます。法律で決まっているから仕方なしに支払うというのが正直なところなのではないでしょうか。はっきり申せば取られ損です。

この感覚は、はるか昔から年貢を納めてきたということからも由来をすると思います。殿様が言うからしようがない。このしようがないという精神文化は日本の特徴でもあると思います。
余り語られていないことですが、明治維新が実現したのは、実は原動力は民にあったんです。当時、幕府より新政府の方がどうやら年貢が少ないらしいぞ。そういううわさが広まっていき、みんながこぞって新政府に資金を調達した。それが原動力となって維新が成立をしたとのことです。私は、この話を耳にしたときに、税に対する国民の深層心理をかいま見た気がいたしました。取られ損の年貢であるならば、少しでも年貢負担が安い政府を選ぶ。明治維新は民の勝利であり、また、そういう国民の深層心理を見事に見抜いた若き志士たちの勝利でもあったわけです。


税とはこのように一方的に取られるものであり、取られ損であり、その一方で、取る人たちは、自らの懐を痛めないまま適当な目的のために勝手気ままに使えるお金ぐらいにしか思っていません。だからこの国は深く考えずに借金を積み重ねてしまったわけです。


取られる側は取る側にどのような意見を持つでしょうか?

取られる側からするならば、「好き勝手に使いやがって、ふざけんじゃね~ぞ!」というネガティブな発想が常にあり、だから過去に増税論議は必ず失敗してきたのです。とられる側からするならば、税は「官にくれてやっている」、もしくは「官=オカミに搾取されている」モノでしかありえないからです。そういう性質を持つ税につき、公正に使いましょうといったって響くわけがないのです。


民主党が決定的に思い上がっている点はまさにここなのです。マニフェストとか契約とか、名ばかりで結局は、「施してあげましょう」の一環に過ぎないわけです。取られる側はそこを見抜いています。マニフェストで政権交代が起きたのではなく、マニフェストはあくまで付属品で政権交代の本質は違うところにあると考えます。政権交代の本質は、庄屋文化の延長ではこの国はもうだめだという、取られる側のメッセージであったわけです。この点が一番重要だと思います。


縷々書きましたが、取られる側としては、
「勝手に取りやがって、ふざけんじゃね~ぞ」
「好き勝手に使いやがって、ふざけんじゃね~ぞ」
「返してくれるんなら返せよ」
「でも、真に困っている人に俺たちのお金を使うならそれは認めるよ。納得できるからな」
といったところでしょうか。取られる側の民としては、


財政破綻しそうってそれはあんたら官と官寄り政治家が作ったもんだろ?責任取れや!(怒)

という気持ちと、

官と官寄り政治家が作った財政破綻しそうであるという現状を、増税の名の下に俺たちに押し付けるのかよ!(怒)

という気持ちと、複雑に入り組んだ状態なのではないかと考えます。


彼らは民主党に対し、政権交代で託したのは「庄屋文化を廃止して、官をきっちりと監視しろ」という点にあったのではないでしょうか。その監視すべき対象を守るために増税といわれているという認識が全てのような気がします。菅総理はこの庶民感情がわからないのでしょう。やはり政治は所詮貴族なのです。


まとめますと(あくまで半田個人の考えです。いろんな考えがあってよいと思います)、取られる側に成り代わってきっちりと取る側を監視しろ!…これが、民の集合的無意識、一般意志が政治家に求めているものだろうと思います。民主党の墜落振りから私達は学ばなければなりません。私達政治家がなすべきは

取られる側の代理人として、官と官寄り政治家を監視する


ただこの1点なのです。