税は取られるモノであり、それを好きに使うのが官である。 | 半田伸明のブログ

税は取られるモノであり、それを好きに使うのが官である。

地方税法では、所得税を源泉徴収している事業者(給与支払者)は、従業員の個人住民税を特別徴収しなければいけないことになっています。


私はこの特別徴収制度は問題があると考えています。いわば気が付いたら差し引かれているわけですから、自分で納めているという意識はやはり低くなります。この一連の所為も、「税は取られるモノ」という意識を醸成しているでしょう。


すなわち、公を形成する官の行為に対し契約をするという意識が希薄になってしまうのです。取られるだけか、それとも契約をするのか、意味が全然違います。


しかし、取られる層は、心のどこかで、オカミに対する不信感を持っていると考えます。支配する側と支配される側…歴然たる差がある2つの社会です。取られ損でたまるか!という怒りが、増税論議に一矢報いているのです。増税するくらいなら政策を減らすのが筋である…皆さんそうは思いませんか?


この「取られ損」という感覚は、はるか昔から年貢を納めてきたということからも由来をすると思います。殿様が言うからしようがない。このしようがないという精神文化は日本の特徴でもあると思います。余り語られていないことですが、明治維新が実現したのは、実は原動力は民にあったんです。当時、幕府より新政府の方がどうやら年貢が少ないらしいぞ。そういううわさが広まっていき、みんながこぞって新政府に資金を調達した。それが原動力となって維新が成立をしたとのことです。私は、この話を耳にしたときに、税に対する国民の深層心理をかいま見た気がしました。取られ損の年貢であるならば、少しでも年貢負担が安い政府を選ぶ。明治維新は民の勝利であり、また、そういう国民の深層心理を見事に見抜いた若き志士たちの勝利でもあったわけです。このように考えると、名古屋市の河村改革は頷けるものがあります。「減税日本」という言葉は響くものがあります。


そもそも税を支払うことにつき、公共における官との契約との意識がほとんどなく、さらに追い討ちをかけるように、国民が本来有する官及び政治家への不信があります。国民負担率といえば必ずと言っていいほど北欧の話になりますが、北欧における国民負担率の高さに国民が一応納得しているのは、政府と国民の信頼関係が根底にあるからであって、日本の年金問題に象徴されますように、国民が国に託したお金がむだに使われ、勝手に使われ、納付記録の管理すらおろそかにされているような政府を国民は信頼をすることができるでしょうか。自明の問題です。つまり日本という国においては、官そして政治家が信頼されていないのです。そもそも信頼されていないのに、マニフェストといわれてもピンと来ませんね。私が見ると民主党マニフェストは、「してやる!」「くれてやる!」の連発にしか見えません。庄屋根性むき出しですね。


しかも、そういうマニフェストを掲げておきながら、政権与党になってしまった後は、内容を切り下げることを平気でするのですから、民主党というところは、なんといいましょうか、もう終わってしまったところですね。私はそう見ています。もう自滅までは時間の問題でしょう。マニフェストを契約というならば、マニフェストによる選挙を行って、その実施において内容を切り下げるようでは契約破棄に等しく、国民に信頼してくれと言ってもむなしく響くだけです。国民主権とは名ばかりに、取られ損の税を好きに使う政治家、また、その利権に群がろうとする利害関係者たち、その一方で、取られる側は覚めた目でそういう方々を冷静に見つめている。はっきりと2つの社会ができ上がってしまっているのです。すなわち取られる社会と使う社会です。


税収をみずからの懐を痛めず、適当な目的のために勝手気ままに使えるお金ぐらいに認識しているようでは、国民・市民を説得・納得させることはできないのです。こうしたことから、税は取られるものであって、払いたくないという感情が醸成されていくのではないでしょうか。