好きである事と、詳しい事は別の話である。
それは趣味の世界でも同じだ。

僕の場合、好きになると大抵はその知識に追い込みをかけて行ってしまうタチなのだが、中にはそうでないものも存在する


それが珈琲だ。


漢字で「珈琲」と書けばどこかキザな匂いがする。年代にもよるが現在では明らかに「コーヒー」や「Coffee」の方が一般的だろう。
漢字で書いた珈琲にはなんらかの意図を感じでしまうのは考え過ぎか。こと自分の書く歌詞や文章の中では漢字表記とカタカナ表記では明確な意図の違いがある。音にしてしまえば同じに聞こえてしまうが、それでも使い分ける価値はあるものだと考えている。

例えば生まれて初めて飲んだコーヒーは強いて書くなら「こぉひぃ」と書きたい。物体そのものにまだ理解が無く、ただ口にした飲み物の名前がたまたま「こぉひぃ」と大人は呼んでいた、そんな具合だ。
そう、そのくらい僕のこぉひぃデビューは早いものだったのだ。詳細を聞いて驚くなかれ。なんとその頃の‘カップ’となる容器は哺乳瓶だった。しかも驚きはそれに終わらない。注文したのはブラックこぉひぃと来たもんだ。ここだけを話すと乳幼児にブラックこぉひぃを与える親の感覚に疑念を持たれそうなので両親を弁護しておくと、自らが欲しがっだのだと言う。もちろん子供向けの飲み物ではない事から日常的に飲ませていたわけではないそうだ。どうしても飲みたがった時、そう‘特別な一杯’を僕は楽しみにしていたらしい。

幼稚園に上がる頃には店で普通にコーヒーを注文するまでになっていた。この頃書き方は「コーヒー」が妥当だろう。
デビューこそ早かった珈琲道だが、実はブランクも存在するのだ。
あれは小学校四年生くらいの時であったか、いつものようにブラックのアイスコーヒーを飲んだ後、謎の腹痛に襲われた。今考えると夏の時期、冷房の効いた店で喉の渇きを潤したいがために半ば一気飲みに近い形で完飲したことが原因だと察するが、その日を境に僕はコーヒーを絶ってしまった。余程嫌な思いをしたのだろう。
しばらく時が経って中学生の頃、もう大丈夫だろうとホットコーヒーを飲んでみたのだが駄目だった。腹痛にはならないまでも今度は胸焼けと言おうか後味の悪さが気になり、口では美味しいと感じれるが身体が受け付けてくれない。
二度の臨床試験の結果から僕は人生からコーヒーという飲み物を抹消した。危険を伴ってまで快楽を得たいとは思わない用心深さはこの頃から変わっていない。辛かったの就職してからだ。打ち合わせや面会の時に出されるのは8割方コーヒーなので悪気はないが、いつも口をつけないままやり過ごすことになる。出して頂いた飲み物をよそにカバンからペットボトルの飲み物を飲むのは気がひけるし、若造ごときがウェルカムドリンクの注文変更は生意気である。
こんな事から不便な日々が続いた。
一番恐縮だったのは撮影時だ。何度かコーヒーを飲む芝居も経験したが、その時もいつも小道具さんに頼み中身を麦茶に入れ替えて貰っていた。
そうなのだ。仮面ライダー555で巧がフーフー冷ましていたのは、あれはコーヒーにあらず。中身は麦茶であった。

社会人としてのコーヒー下戸も不便なものだったが、実はもっと深刻だったのは僕の元来の趣味と矛盾が起きていたことだ。
僕の昭和探求は小学生来のことだが、その中で欠かせないものが‘純喫茶’探訪だった。カフェでもなくコーヒースタンドでもない純喫茶。ここで初めて書き方も「珈琲」という飲み物を嗜めるはずだったが、いつも頼むのは紅茶かココアだけ。純喫茶の主力商品である珈琲をいつまで経っても頼めないでいた。

こんな煮え切らない純喫茶探訪を続けていた日々のこと、ある転機となる‘アイテム’に出会う。二十五歳の秋だった。
なんの事はないただのコーヒーカップのセットなのだが、たまたま上野公園の雑貨市に立ち寄った時に一目惚れをし購入した。
家に持って帰りテーブルの上に置いて見ると、やはり自分の目に狂いは無かった。美しい理想的なフォルムをしている。ただ寂しいのはそこに注がれるはずの主役が不在なことだった。
妙な好奇心に見舞われ‘三度目’のチャレンジをするなら今日しかない!という気持ちが沸き起こった。当然の事ながら家にコーヒーはないので、向かいのコンビニで紙コップ入りのホットコーヒーを買ってきた。そしてそれを冷めぬ内にカップに移し替えた。これで小道具としては完成形になったわけである。あとは飲むだけ…
初めての飲酒よりもハラハラする思いでゆっくり口をつけた。口の中にコーヒーの味が広がる。約十年ぶりの懐かしい味だ。相変わらずこの味と香りは好物とあり、お気に入りのカップと相まって気分はとても良い。20分くらいかけて一杯のコーヒーを飲み終えた。
さぁ、ここからが勝負だ。前回の試験の結果では約30分後に居心地の悪さがやってきて、半日症状を引きずった覚えがあるので油断はできない。
30分が経った。脈拍、呼吸、消化器官異常なし。
1時間が経つ。依然として異常なし。

2時間経過、腹が減り始めた。

と、言うことは!?

勝ったのだ…僕の身体は見事にコーヒーを克服していた!

実に長い十年間であった。その間、幾多も素敵な店を訪れた。その度に不本意な注文で自分に偽りの趣味を押し付けてきた…
しかし今日からは違う。呑み直しだ!ここから僕の本当の珈琲道の道が拓けるのだ!



かくして、味は推奨されていたが身体の認可がなかなか降りなかった‘元好物’のコーヒー。
解禁と同時に僕はようやく「珈琲」にありつくわけである。

話を頭に戻すと、好きであるが詳しくはないのが僕にとっての珈琲道なのだ。
それはきっと僕にとっての珈琲が純喫茶という‘シーン’における不可欠な小道具だからなのだろう。
もちろん味の好みの傾向はある。しかしそれよりも大切なのは‘場所’であり‘シチュエーション’が優先されている気がする。
それを証拠に、正直味はそこまででも店自体を気に入れば通うし、その逆もある。
しかし僕が嗅ぎつけて入る店は大概旨い珈琲を出してくれる。店構えがそのまま味に出ているといったところか。


珈琲を飲みたいから喫茶店に入るのか、喫茶店で珈琲を頼むことがしたいのか。


その曖昧さも含めて、それが僕の『珈琲道』なのだ。

また別稿で今度は‘純喫茶道’も書いてみようと思う。

《駿河台下・古瀬戸珈琲店にて》




半田より。