来年2020年に控えた東京オリンピックを前に現在東京は各所で開発ラッシュとなっております。

とは言え1964年頃の開発とは意味合いが違い、都市機能性向上というよりは、より華やかに彩る為の手段のようにも感じられます。

これにより築40年以上の建造物、または区画は一掃されがちですが、そんな中でまだまだ現役としてその雄姿を保ち明日へ発信し続ける建物も存在します。


今回は今年開業50周年をむかえた『東急プラザ赤坂』のお話。ちょうど今月いっぱい本館内で写真を展示していたので観に行ってきました。



当たり前の事ですが50年前と言えば、人間ならオギャーと生まれた赤ちゃんがそろそろシワも増え髪も薄く様変わりする程の年月ですから人によっては‘大昔’という感覚もあるかもしれません。

そんな大昔を写真と共に振り返ってみましょう。



現東急プラザ赤坂が『赤坂東急ホテル』として東京は赤坂見附駅前に開業したのは昭和44年9月13日。
前年には日本初の高層ビル『霞ヶ関ビル』(地上36階、147米)が完成し、これを皮切りに都心部を中心に高層建築時代の幕が切って降ろされました。
赤坂東急ホテルも当時としては高層に部類される地上14階の超大型ホテルで、開業日には華やかなパレードが催されたようです。




鼓笛隊とマーチングのお姉さん達がなんとも良い感じですね!

余談ですが水前寺清子さんの『365歩のマーチ』が発売されたのも同年です。

現在のホテルのオープニングレセプションはどんなテイストで行われているのでしょうか??





もはや何が行われているのかわからない笑

バレリーナでしょうか…





建物内を見てみましょう。


三階に位置するホテルのフロントの様子。
天井が現代の感覚からすると気持ち低い気はしますが、それでも重厚感があり気品漂う内装です。
当時流に云うならば、ジーパン&サンダルでの入館はご遠慮下さいませ!(現在は緩和されていますが)

さすがにリニューアルされていますが、奥に見えるフロントカウンターの造りはそのままのものが使用されていました。





客室を観て観ましょう。


ツインルームでしょうか。
ベッドとテレビが小ぶりで可愛らしい。
アール・デコの効いた脚のデザインのテーブルも今ではなかなか見かけません。



こちらはちょっとグレードの高そうな部屋です。
窓に障子がはまっている内装は和洋折衷で発展期の日本のトレンドのようにも思えます。
現在では障子は可燃性内装とみなされて高層建築の内装ではあまり積極的に使用されることはなくなりました。
逐一灰皿がセットされているテーブルも近い将来見かけなくなる風景の一つかもしれませんね。

また余談ですが、60年代に日航機が使用していたDC8機‘富士号’の前方キャビンには和をあしらった迎賓空間が用意されていました。


これも航空法の改正により障子が可燃性だという理由から廃止されました。
実に日本的な発想で美しいのですが、安全には変えられません。





こちらはカフェの様子。


位置から推測するに三階の北側角にあったのでしょうか。
奥にぼんやりニューオータニの旧館建屋(昭和39年完成)が見えています。
お客さんのお姉さんのアイメイクが濃い目で好きです!






場所は特定できませんでしたが螺旋階段。
このような円形模様のタイル貼りは昭和40年代の建築物でよく見かけます。




建築前の風景。


赤坂東急ホテルが建つ前は二階建ての横に長い建物がありました。
奥に見える白い大きな建物はあの不名誉な事件で有名になってしまった『ホテル・ニュージャパン』です。同ホテルの開業は昭和35年でした。それを考えるといかに巨大で近代的なホテルだったかということがうかがえます。
現在はそこにプルデンシャルタワーという高層ビルが建っています。



建築中の赤坂東急ホテル。
内装はリニューアルされど外壁の様子は現在も開業時の装いを保っています。



首都高を挟んで北側に存在していた『赤坂プリンスホテル』は建物としては赤坂東急ホテルよりも約15年も新しかったにも関わらず、2011年をもって閉館解体をされて行きました。
あれほど大きな建物でも解体出来てしまうのが現代の技術です。

そんな中にあり50年という時間を生き抜き、大きな事故にも遭わず今日も同じ姿で営業し続ける東急プラザ赤坂に‘平成育ちの昭和好き’として拍手をお贈りします。

これからもそのままの姿での末永き営業を期待しております。






てかまず、一回は泊まらないとな…笑





半田より。


12月8日ライブ『健人の部屋Ⅲ』
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スペシャルゲスト・水木一郎さん