最近、偶然にもハリウッドザコシショウさんのものまねをネットで初めて見ました。

いくつか動画を見ていて気づいたのですが、ザコシショウさんは人間を他生物を観察するような距離感でものまねしているように見えます。たしかに誇張ものまねだとは思うのですが、それよりも人間とは違う生物の形態模写という方がしっくりきます。鳥とか虫が逐一何を考えているかってどれだけ研究していてもおそらく分からない。分かるのは生活の中におけるダイナミックな習性や規則性のみです。言語とか細かい仕草、感情の機微を完全に度外視したこの人のネタを見ると、逆に他の生物には人間がこんなふうに映っているんじゃないかと滑稽で面白くもあり、不安にもかられます。

テンション芸というか、怒鳴っているのが面白いみたいなスタイルのネタなのかと思っていましたが少し違うようで、勝手に深いのかも?と感じるようになりました。そしてそう思うよになってから単純に楽しめるようになりました。お笑いっていろいろあるなあ。


今『友よ』を聞いてにわかに感動したので覚え書き。

アンジュルム福田花音さんの卒コンにて、爽やかな送別ソングとして歌われた事も記憶に新しいこの曲。今更ですが、歌詞がとても良い。

自分たちの関係を凡庸に友達関係と済まさず、もっと特別なものだと思っている。一方で、間もなくお別れの時間が来る。そういう状況が歌詞の世界観。ネットで少し調べたものだと"我等友情永久不滅"とか、"心友"とか、よく女子中学生あたりの子供たちが自分たちの関係性を「ただの友達じゃないぞ」と主張する時に使うスラング的表現があります。しからば、作詞を担当した児玉雨子女史は"さようなら"のニュアンスについて考察したわけですね。着眼点がすごい。お別れの定型句としての"さようなら"あるいはその類語は、どれを使ったって挨拶としては成立します。だけど、この歌詞の子たちは、他ならぬ"バイバイ"を自分たちのアイデンティティを示す合言葉とします。だから"さようなら"でも"またね"でもない。で、浅はかな私はバイバイってそんな特別な意味があったっけ?と辞書を引くも、当然、このシチュエーションにふさわしい根拠等載ってはいないのです。つまり、あくまで話し言葉として、バイバイの音の砕け具合が自分たちの距離感にしっくりくるのだという直感で採用されているに過ぎず、だからこそ、エモーショナルなのです。この事を知った時、一気にリアルなワンシーンとして頭の中で再現され、深く感動しました。見田宗介氏の『社会学入門』という本では社会が大きく4つに類型化され、その一つとして交響体という概念が説明されています。いわくそれは、交歓(他者の幸福を喜び合う)というコミュニケーションによってつながった社会のこと。友人や恋人関係等がそれに該当します。『友よ』の歌詞を読んでいて、また卒業ライブを目の当たりにしてこの交響性を感じられた事が、思えば大きな感動の一つの要因だったのかなと感じています。
久しぶりに書きます。

まずカントリー娘の活動再開(実質的な新ユニット)、こぶしファクトリー結成ときて、多くの人がベリと℃-uteの後釜になるんだろうと直感した事と思います。自分も例に漏れずその一人です。

しかしながら、つばきファクトリーなる新ユニットが結成すると聞いて予想が少し変わってきたので、その事を箇条書きで記録しておきます。

・先のベリキューの一子相伝的構図は崩れ、単に末っ子として三つ巴で活動していく形になる。
・℃-uteの活動停止はまだ先になるんじゃないかという事。決定的根拠はないが、℃-uteはここ数年勢いを落としておらず活動停止のタイミングとして唐突すぎると思うから。
・ハロがスケールメリット>つんくプロデュースの動きにシフトしているように見える。ほぼ全てつんくプロデュース体制という自営業的面白さから、つんく制作の規模的制約が取り払われた事で外注制作によるグループとのマッチングや大規模イベントの企画興行へ。
今回の℃-uteのシングルで、非つんく曲である『我武者life』の世界観とグループの相性が良いと思った事と、大器晩成やカンガル曲等外注曲の受けがとても良いという事からファンにもある程度受け入れられているように思う。

・それから、各グループのアプローチの仕方が個別化しすぎてセクショナリズムに陥るのを防ぐためにベリのキャプテンと徳永さん、PMの二人がハロに残存したという見方もできるかもしれない。

まとめると、ハロメンおよびグループの総数が増え、音楽はほとんど非つんく制作となり、大規模イベント(スポフェスやひなフェスといった)が増える。ただメンバーの所属事務所はあくまでアップフロントでしょうからakbのようなメディア戦略はできないと思います。