兄は手術に臨んだが、

腫瘍をひとつも取り除く事ができないまま

手術室を後にし退院して来ました。

タラー

タラー

タラー

この報告を受けた時の自分の心境はと言うと

「がんになった」と言われた時より

衝撃が強くて、言葉を失いいました。

 

 

 

余命は聞きはしなかったが、「すい臓がん」の

生存率からして兄がそう長くないことが理解できたから・・・。

 

だけど兄も義姉も、もちろん私も諦めたわけじゃない!!

 

現在の医学の進歩がすい臓がん治療にも及んでいるはずびっくりマーク

と義姉と光を探すような会話をしました。

 

 

 

退院してから幾日が経ち

去年の今ごろ4月の2週目辺りだったかな?

「抗がん剤治療を行う予定が立ったからニコニコ

と連絡が入りました。

予防接種

予防接種

予防接種

この連絡が入った時、兄はもちろんまだ元気で、

「今年のGWはそっちに遊びに行くからな車

 

 

と元気な言葉がありました。

 

 

そして最初の抗がん剤投与の日には

いつもの様におどけてピースをしている写真を送って来ました。

 

しかし、いざ治療が始まり投与が完了すると

余りのしんどさに辛くて苦しくて

食事も喉を通らなくなるほどに叫び

 

兄の仕事は水道工事・・・ざっくりとの説明(笑)

なので外現場での仕事が多く、

体力の必要な仕事。

 

 

治療を行いながらも仕事に行くので1日数時間しか

現場に立てないことも暫し。

 

 

「休んだら?」と言っても

仕事が好き、ん~好きだけでは言葉が浅いのですがあせるあせるあせる

「男は仕事をしてこそ男」

と強く思っている兄にとって病気と言えども

仕事に行かない…行けないのはそこで全てが終わってしまう程の

大きな壁なのだと思いました。

 

 

4月も後半に差し掛かり、GWも目前にしたころ

「あんなぁ~、余りにもしんどいから行くの辞めとくは」

「遊びに行くのごっつい楽しみにしててんけどなぁ」

 

 

と、落胆の声で電話をして来ました。

肩で息をしている・・・・・そんな感じの声で泣

 

 

兄は「私らが帰るから」と言っても

「あかん、俺らが行くんや」と、実際何処が誰の故郷や?

って言いたい時もあったほど岐阜に来ることが多かったです。

 

 

なので来ることを中止するのは淋しく辛かったかと思います。

 

 

「治療受けて元気な身体やったらいつでも来れるんだからね」

とこの時は励まして電話を切りました。

 

 

手