余りにも久しぶりで、ブログの画面上でなぜか緊張している始末(笑笑)最終投稿の日付けを見ると7年の月日が流れていた😂
まぁ、そんな事はさておき…
この7年の間に我が家の生活形態も随分と変わった。
当時学生だった2人の息子は嬉しいことにそれぞれに世帯を持つまでになった。
この子たちが生まれて来てくれた時、自分の様な境遇にしたく無い‼️と言う思いが強く、生活が少々苦しくとも専業主婦を選び、小学生に入った頃からは授業参観などには参加したいので外での勤務(パートなども)はせず、内職をして家計をサポート?…。
子どもを設けた当時の私は「良妻賢母」を目指し、仕事を持つことなど考えられなかった。そこにはきっと自分の生い立ちが色濃く関係している。
1964年、戦後の復興の活気に満ち溢れる高度成長期、その証の東京オリンピックが開催された年、私は母(33歳)の生む3人目、父(31歳)の持つ3人目の子どもとして尼ヶ崎の中央病院で生まれた。
父と母はそれぞれが子を持つ再婚同士。
故に3人目なのだが、戸籍の上ではひとりっ子である。
私が物心を持った時、自分の生活の場に父は居なかった。尼ヶ崎の家には祖父母、母、私の4人と、その家の裏のアパートに8歳上の兄と母の弟叔父と2人が暮らしているという生活のスタイルだった。
当時、私の母は朝早くから夜中まで働いて家計を支える大黒柱だった。中々母に会えずに居る私は幼少期ながらもこの家に父が居ないから…と思っていたかどうかは定かでは無いが💦事あるごとに「なんでうちにはお父ちゃんが居ないん」「お父ちゃんが欲しい!」と駄々を捏ねていた記憶は有る。
その度に母と祖母は「あんたのお父ちゃんは死んだんやから仕方ないんよ」と。だから1日中母が働いていても仕方ない…と言った具合だった。
幼稚園で父の日を目前に描いた似顔絵も母の顔だったことを鮮明に覚えている。幼稚園児なりに本当に淋しかった。
ある朝起きたら母が居て、とても嬉しくて嬉しくて喜んでいたらその日は朝1番のお弁当屋さんの仕事がお休みだっただけで、ふたつ目の仕事は普通通りに行くと言う。
母の後ろ姿を追い駆けて走って行き、転んだ時に後ろから祖母が母に向かい「早よ行き!あてがこの子抱っこしてるさかい」その言葉が、声色が数十年経った今でも頭の中に残っている。
またある時はふたつ目の仕事が終わって夜の小料理屋に働きに行こうとする寸前に母が倒れ、救急車で運ばれた行った。四つん這いで歩いていた母の姿が脳裏に焼き付いていて泣き喚いた。きっとこの時は泣き喚き過ぎたのだろう…この先の記憶が無い😱
でも、その後母はちゃんと帰宅して来ていつものローテーションで仕事をしていた。
今考えても何というバイタリティーの持ち主なんだろ‼️と思えるし、絶対に真似出来ない。
世の中は日本の復興と共に景気が良く、私の暮らす尼ヶ崎も繁華街は賑わい、当時阪神の駅に在った阪神百貨店の中の1部に並んで居たであろうリカちゃん人形が私の目には眩しくて「うちリカちゃんとリカちゃんハウス欲しい❣️」と言った。勿論、母の返事は「うっとこには買えへんからな、我慢しぃーや」と手を握られた。
ただ、なぜそんな所に行く用事が有ったのかは知る由もない(笑)
また初夏の日差しが差していたとある日、母が珍しく「今日は1日居るで(^^)」と言う。私は嬉しくて嬉しくて何処かに連れて行ってもらえるのか?と楽しみにした💖
確かに、確かに何処かには連れて行ってくれた。
尼ヶ崎の家から西宮の苦楽園という場所に在るお寺さん。ここは祖母と母が信仰しているお寺さん。
帰りはバスと電車だった記憶があるものの、行きは「歩き」だった気がする。当時、ボウリングのピンの形の中にアイスクリームが入った食べ物があり、それを食べてみたい!と言う欲求があった。
「お寺まで遠いけど歩いて行ったら食べさせてあげる」と言う言葉に絆されて歩いた…と思う。
行きだったか、帰りだったか、お店の前に置いてあるベンチに腰掛けて食べさせてもらった。ベンチに座り、足をブラブラさせてスプーンで運ばれるアイスに舌鼓を打って「よぉ歩いたな、ええ子や」と母の声が嬉しかった。
母は3つの仕事を持ちながらも時間が空いた時は精一杯私に接してくれていたのだと思う。
母は基本的に夜は小料理屋に勤めていたのでほとんど夜は居ることがなかった。だから母に絵本を読んでもらって子守唄を歌ってもらった🎵という記憶はこの時以外にないのだが、、、
ある夜、私を寝かしつけようと本を読んだ後に歌を歌ってくれた。しかもその歌は「赤い靴」。🎵赤い靴 履いてた女の子〜 異人さんに連れられて行っちゃた〜🎵
悲しすぎるやろ〜😭
私は寝るどころか、「可哀想😢」「なんで連れられていったん?」と言いながら泣きじゃくってしまった。
今思い返しても「何故あの歌をチョイスした?」と笑えてくるほどだ😆 今ではその母が居ないから理由を聞けない。アハハハハッ
でも、父が「死んでいた」から私は母と過ごせる僅かな時間がとても大切だった。
そこには小さな手がの私が母の大きな手をいつも求めていた。
……See you next time……