歴史上人物の最期 -3ページ目

歴史上人物の最期

偉人たちの最後は様々です。

身を挺して弟子を守っていた?



ホー・チ・ミンは、古今東西の多くの政治家が、英雄的な活躍のあとに内政で失策を犯して国民の支持を失う、という試練をほとんど受けずにすんでいる。



その最大の理由としては、1945年の独立宣言時から1969年に死ぬまで24年間にわたってベトナムの指導者を務めたうち、平時だったのはわずか5年間で、ほとんどが戦時だったことがあげられる。



平時だった1955~60年の間でさえ、ホー・チ・ミン自身は見るべき内政手腕は発揮していない。



高齢という理由もあって、弟子の書記長チュオン・チンに内政を任せていたのだ。



1954年、チュオン・チンは北部の土地改革として、地主から土地を取り上げ、貧農に分け与えた。



だが、北ベトナムにはもともと大地主がいなかったため、混乱が起こり、ホー・チ・ミンの故郷ゲアン省では農民暴動まで発生した。



この暴動を抑えるため、ホー・チ・ミンは一個師団を動員しなければならず、農民側でも兵士側でも多くの人命が失われ、ベトナム民主共和国は大きく揺れ動いた。



ホー・チ・ミンは、1965年に土地改革の行き過ぎを反省する書簡を出し、かろうじて混乱をおさめた。



チュオン・チンは責任をとって書記長の座を退いた。



このような場合、チュオン・チンのようにして政界を追われることが多く、国によっては粛清されてしまう場合すらあるが、彼はそのいずれにもならなかった。



ホー・チ・ミンがこの愛弟子を守ったのである。



彼は高齢を押して自ら書記長に就任し、チュオン・チンを国会議長にした。



別の人間が書記長になればチュオン・チンを追い落としてしまうかもしれないが、自分が書記長ならその心配は後に、というわけである。



チュオン・チンは、師のおかげで左遷もされなければ党を除名されることもなかった。



党内部での立場は悪くなったが、ベトナム創立に貢献したという評価はそのままで、毎年の独立記念日には檀上に上がった。



おかげでチュオン・チンは、失策のほとぼりも冷めた1969年にホー・チ・ミンが死去した後も政界に残ることができ、86年には書記長に返り咲いている。