病床にあっても職務を忘れず・・・
1972年8月、田中角栄首相(当時)が訪中し、周恩来首相と日中国交回復のための会談をおこなう少し前、周恩来は血尿を出し、検査の結果、膀胱ガンと診断された。
日中国交回復の会議は、そんな大病を抱えた状態でおこなわれたのである。
しかし、田中首相は、会談相手がガンを患っているとは思ってもいなかっただろう。
それどころか、中国側のスタッフでさえ気づいてなかった。
周恩来は、自分の病気をだれにも気づかせないようにしていたのである。
彼はガンとわかってもそれまでと同じように、昼は外国の来賓と会見し、夜には側近たちと会議を開いて国交回復の問題について話し合ったり、毛沢東の住居に赴いて報告したりした。
当時74歳という高齢でありながら、毎日十数時間から20時間も仕事をこなしていたという。
また、彼は自動車から降りると駆け出して、秘書が息を切らして追いかけたりもした。
忙しいからでもあり、周囲に病気を悟らせない配慮でもあったのだろう。
健康な74歳でも、なかなかマネのできるものではない。
周の様子は、とてもガンに侵された人には見えなかった。
病院に入院してからも、周は仕事を続けた。
外国の賓客との会見がしばしば病院でおこなわれている1975年1月、第4期全国人民代表大会で、官僚や軍の長老たちは周に、
「在世中は首相でいてほしい」
と懇願した。
周はこのときすでにガンが進行し、大会でも5000文字あまりの短い報告を読み上げるのがやっとの状態だったから、彼らの懇願は苛酷な要求であるにもかかわらず、周は彼らの求めに応じ、引き続き首相となった。
このような状態にもかかわらず、周は病院では仕事に集中しづらいのか時々病院から北海公園の料亭に出かけて仕事をした。
同年12月中ごろから周は寝たきりとなり、食事をとることもできなくなった。
やがて彼は生命が危ぶまれる状態となったが、自らがそういう目に遭っておりながら、何度も毛沢東やほかの指導者の健康状態をたずねたり、各界の知人たちの今後を心配したりしていた。
最後まで政界や他人のことを心配しながら、1976年1月8日の朝、彼は息を引き取ったのである。