人類最初の女といえば、イブだと思ってしまいがちですが、それは正しくありません。
正しくは「リリス」です。
実はアダムには、イブ以外の最初の妻がいました。それがリリスです。
リリスはイブのようにアダムのあばらから作られたようなアダムの従属物ではなく、アダムと同じように土から造られました。
ところが彼女は、いわゆる良妻賢母タイプの女性ではなかった。
夫に悪影響を及ぼす、みだらで邪悪な妻でした。
純真なアダムはリリスの誘惑に堕ち、悪に手を染める危険が高まってきたので、神々は急いでリリスを遠ざけることにしました。
そして彼女は、アダムに従わないという罪で神の罰を受け、悪魔と化し、楽園を追放されます。

この話を聞いて私が思うことは、大きくわけて二つあります。
まずは、リリスはここで言われているほどの邪悪な女ではなく、自我をしっかりと持った、現代的な進歩的女性だったのではないだろうか、ということ。
もうひとつは、男女関係にかかわらないかもしれないけれど、お互いの人間関係をうまくやっていくためには、そのどちらもが自己主張ばかりしているようでは、確かにうまくやっていくことはできないかもしれない、ということです。

ジョン・コリア「リリス」1887
カンバス 油彩 237×141㎝


女性に対するかなり偏った先入観が見て取れる19世紀の絵画


イブはアダムのあばらから造られたので、アダムとはどうしても対等ではなく、異質な存在です。
けれど、リリスは違います。
リリスはアダムと同じように造られた。けれどアダムではないものなのです。

このリリスが「アダムに従わないという罪」で追放されたということは、本来はこれを「女性として失格」といった意味でとらえるべきではなく、このようにお互いが主張しあっているだけの関係ではうまくいかないよ、という警告だったのではないかな、と私は思うのです。
(まあ、ではそこでどちらを罰するのか、というところで何故か女性が選ばれるというところは、確かに女性に対する嫌悪感や偏見などが含まれているかな、とは思うのですが)
だからイブはアダムより一歩引いた存在として登場し、これによって関係性が保ちやすくなった。
そして歴史は長い間、この「イブ」の姿を「女性」としてとらえてきたのではないかなと思うのです。

けれどそれではやっぱり無理があるということが最近になってわかってきました。
女性はその男性が作った解決の道をやはり難しいと感じているところがあって、それが最近になって明るみに出てきたのです。
そこでこれからは、新しいアダムとイブの姿が求められる時代になった。
そのようななかで現在掲げられている理想の姿は、「男女平等」という考え方です。

けれど、私は現在のその姿にも疑問を抱くことがあるのです。


現在の世の中は「男女平等」だということを主張しているけれど、「女も男と同じように力がある」「男と同じように働ける」「男と同じように知性がある」などといったような、男と同じように~というのは、結局世の中のもの全てを男性化しようとしていることと変わらないのではないでしょうか。
それではやっぱり「男性的」な考え方や、男性的なものが評価されるということになってしまいます。
こういったことと、過去にあった「男性はその性別に生まれたことによって偉い」という差別と、一体どこが違っているというのでしょうか。
昔は物理的な区別(あるいは差別)であったものが、今度は思想的な区別(あるいは差別)になっただけにすぎません。

世の中に溢れている、「人間として当然」だと思われているものの多くには、まだそういった「男性至上主義」が隠れているということに、早く気がつくべきだと思います。
いかに当然のこととして人間=男性という思考が染み付いてしまっているか、早く多くの人が知るべきだと思います。
そしてそうでない考え方の選択肢を持つべきだと思うのです。
両方の属性が、等しく世の中に登場するべきだと思うのです。
それはきっと、人間を自然な姿にし、楽にし、豊かにすることができるのではないでしょうか。
はっきりとはわからないけれど、私には何となくそんな予感がしてなりません。