一度読んだ本を何年後かに再び読むと

 

なるほどそういう意味だったのか!

 

と、理解が深まることがある

 

 

 

その時はわかったつもりでいても

自分の理解がまだ表面的であったことが

後に読み直すことで見えてくる

 

 

 

だからと言って

最初に読んだ時の理解が

間違いだったわけではない

 

 

 

その当時の

自分の器に適したレベルの真実を

ちゃんと受け取っている

 

 

何事にも段階とタイミングがある

 

 

そんなことを

3年前に書いたブログを見て感じた

 

 

 

「それ」と「これ」とはまったく関係がない

 

 

 

いま読むとどこか恥ずかしい 笑

とてつもなくいい事を書いているような

こんなこと知ってる俺ってすごいだろう?

みたいな圧を感じる 笑笑

 

 

 

でも書いている内容は

べつに間違っていない

 

 

 

親に愛されてきたかどうか

(と感じられるような思い出があるかないか)

と、自分の価値には一切関係がない

 

 

 

ただ、3年前の私の理解は

今より視野が狭くどこか限定的だ

 

 

 

 

 

 

「それ」と「これ」とは関係がない

 

 

 

今の私にとって

この適用範囲はもっと広い

 

 

 

親に愛されたかどうか、だけでなく

 

 

 

自分が何を持っていて、何を持っていないか

何ができて、何ができないか

何を不足と感じ、何を過剰と感じるか

周りがどんな状況で、自分はどんな立場か

誰が加害者で、誰が被害者か

 

 

 

そんな

頭が勝手に定義づけしているほとんどの事柄と

自分自身の価値には

(そして周りの人の価値にも)

全く関係がない、という感じがする

 

 

 

 

それよりもっと大切なのは

 

 

 

自分が本当は何がしたくて、

何は必要ないのか

 

 

 

人からのお仕着せでもなく

知らぬ間のインストールでもなく

私という人間の底から上がってくる実感として

 

 

私は今

立ちたいのか、座りたいのか

それとも走りたいのか、寝たいのか

 

 

 

本当に今、

そのスタバが飲みたいのか

それとも本当は白湯を欲しているのか

 

 

さっきテレビでみた食べ物を本当に食べたいのか

 

 

 

インフルエンサーが使っているグッズを

自分も本当に必要とし使いたいのか

 

 

 

自分にとって本当に必要で

心身が心地よく喜ぶものとはなんなのか

 

 

 

そんな事を

一つ一つ丁寧に見つめて叶えていくこと

不要なものは取り去ること

 

 

 

なんじゃないかと思う

 

 

 

 

まだ確信ではない

でもなんとなくそうなんじゃないかなぁ

 

そんな気がしている

 

 

 

そして

 

 

今のこの感覚に至るには

3年前のちょっとテンション高く

親の愛と自分の価値について語っていた

あの気づきが絶対必要だった

 

 

 

気づきや理解とは

ミルフィーユのように多層的な

積み上げ構造なのだと思う

 

 

 

私は

その薄皮のようなパイ生地を

亀のようにゆっくりと

一枚一枚重ねていくタイプだ

 

 

 

私は今やっと

本当の意味で

自分と向き合い、一緒に生きる

そのスタート地点にたてたのかもしれない

 

 

そう感じている