『たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。私はお勝手で夕食の後仕末 をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取落すほど淋 しく、思わず溜息 をついて、すこし伸びあがってお勝手の格子窓 から外を見ますと、かぼちゃの蔓 のうねりくねってからみついている生垣 に沿った小路を夫が、洗いざらしの白浴衣 に細い兵古帯 をぐるぐる巻きにして、夏の夕闇に浮いてふわふわ、ほとんど幽霊のような、とてもこの世に生きているものではないような、情無い悲しいうしろ姿を見せて歩いて行きます。
「お父さまは?」
庭で遊んでいた七つの長女が、お勝手口のバケツで足を洗いながら、無心に私にたずねます。この子は、母よりも父のほうをよけいに慕 っていて、毎晩六畳に父と蒲団 を並べ、一つ蚊帳 に寝ているのです。
「お寺へ。」
口から出まかせに、いい加減の返事をして、そうして、言ってしまってから、何だかとんでも無い不吉な事を言ったような気がして、肌寒 くなりました。』
「お父さまは?」
庭で遊んでいた七つの長女が、お勝手口のバケツで足を洗いながら、無心に私にたずねます。この子は、母よりも父のほうをよけいに
「お寺へ。」
口から出まかせに、いい加減の返事をして、そうして、言ってしまってから、何だかとんでも無い不吉な事を言ったような気がして、
(太宰治「おさん」より)
高校時代、文芸部だった友達が教えてくれた作品
この冒頭のなんとも言えず物悲しい語り口が、どうしても心から離れず、ふとした瞬間に思い出していた
そして今、なぜここまでこの文章に惹かれていたのか、少しヒントが見えてきた気がする
叔父自殺後の祖父母
鬱闘病中の夫
どちらも、ここではないどこかに、気持ちは持っていかれてしまっていた
魂が抜けたような、抜け殻みたいな人を前にして、自分の無力さにただただ絶望するしかなかった過去の私
彼らをこの世界に繋ぎ止めたかった
こちらを見て欲しかった
笑顔にしたかった
結果的にできたのかもしれない
私のおかげではないのかもしれない
とりあえず彼らはみんな、こっちに戻っては来たけれど、100パーセントではなかった気がしている
どこか一部はあちらにおいてきてしまった
そう思うと私の無力感がジリジリと痛む
私では力不足
私ではだめ
私ではないあの人でなければ
そんな悲しさが私の中にあることに気づく
ただ悲しく、背中を見送るなんてもう嫌だから
声をあげるんだ
たとえトンチンカンでも
相手が呆れても
もう二度と自分をないがしろにしないと決めたから