蘇我入鹿2

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蘇我入鹿は、首塚の前に霊体としての己れを晒し、さらしサラシ

何故、自分が殺されたか、考えた。



自分の家は、豪族でもトップで、敵味方親戚関係のある物部氏は、既に過剰な仏教保護で亡くなった。


蘇我氏は、推古天皇、敏達天皇、父親の用明天皇の時代から

推古天皇の母親の堅塩媛キタシヒメの兄弟の蘇我馬子、

蘇我馬子ソガウマコの息子の蘇我稲目。ソガイナメ

皇極天皇、斉明天皇重臣の蘇我入鹿。

要要を配し、天皇催事の重要な任務は遂行してきた。


ただ問題は、皇極天皇、斉明天皇の皇太子の中大兄皇子、後の天智天皇が、

まだ即位に必要な

言祝を話していない事だ。


皇太子とおめみえしても、日々元気溌剌ハツラツはつらつで、

「おはよう。」、

「ご機嫌よう。」 

の挨拶も、明るく皇太子として、立派に責務を果たしていると思う。


しかし、何か足りない。

天皇即位に必要な、天皇事のりコトノリ

が。



母親の、皇極天皇、斉明天皇三つ子の天皇に相談しても、はかばかしい答えはなく

皇太子、天皇即位は、暗雲に、乗り上げている。


古代の天皇陵を参詣しても、

皇太子、中大兄皇子は

「ハイハイ。」

と頷ずくばかりで、天皇即位の言則コトノリ

は、たんと聞かれない。


男の子、皇太子、中大兄皇子の天智天皇即位を望む声も多いが、


皇極天皇、斉明天皇のお年の問題もあり

早く、皇太子天皇即位の決め手が欲しい。



今日も、中大兄皇子皇太子に会ってきたが、

これから

友達の、最近の仏心論で、新たな仏教保護で勢力を伸ばしてきた

中臣鎌足、藤原鎌足殿と、釣りに行く。

又の日を尋ねると、蹴鞠ケマリけまり


の練習に余念がなく、共に不在である。


早く、天智天皇の御子則みこのりミコノリが欲しい。

側近、天皇の親類親戚王侯諸侯は皆、年をとってしまう。


せっかく、百済新羅白村江の戦いで勝利勝っても、

そうして、高句麗から

新羅の大仏を戦勝の祝いとして

かっぱらっても

戦勝の報告として、仏教伝来をもらっても


次代を継ぐ天皇御子則みこのりミコノリが無ければ、

大和朝廷の男子存続に継承される

三種の棺の、継承も怪しい。


女性天皇のみでは、継承できない大和朝廷男子継承の不思議の三種の神器。

天皇家に代々伝わり、神武天皇孫孫大国主命おおくにぬしのみことオオクニヌシノミコト

からの天皇家の、秘宝を守る男子皇族の任期。

草薙の剣クサナギノツルギくさなぎのつるぎ

八咫鏡ヤタノカガミ

八尺瓊勾玉ヤサカニノマガタマやさかにのまがたま


古代から続く三種の、神器を守る為に、古代天皇家があり

豪族があり、

その伝承を伝えるために、王族姫君がある。


蘇我入鹿家は、

代々天皇王家守りではあるが、

まだ三種の神器を、しかと眼まなこマナコで、見た事は無い。


それほど、天皇家直系の者にしか見果てぬ夢を与える三種の神器。


物部氏を、倒した今、蘇我氏にも三種の神器の面会が許されてもいい筈ハズなのだが

曽祖父蘇我馬子には

面会が、許され、孫蘇我入鹿には、未だない。



父親、蘇我稲目に話しても、

三種の神器に関しては何もに語らず、鋭い目つきで酒の盃、酒の魚を、睨むだけ。



側近に聞くと、何度か、三種の神器との神事面会は、あったのだが、

直前に、彼父親、蘇我馬子にのみ

遮断。面会は、無かった。


皇極天皇、斉明天皇に、聞くと

「遊びすぎよ。」

とふくよかに笑う。


中大兄皇子、後の天智天皇に、聞くと

「少し、遊んだ方が良いのでは。蹴鞠ケマリをしよう。」

と誘われる。


本当に妙に、腑に落ちない、三種の神器である。








2. 仏教伝来

皇極天皇、斉明天皇の時に、日本の国の方針を、固めてしまおうと、
百済高句麗の和尚さん達を呼んで、国の方針を占なう
大法界を開き、
国の新らしい官吏、氏 中臣鎌足が、翁沖縄を努め、
盛大に、催された。

その時、中臣鎌足氏は、
三種の神器を和い見えた経験として、
「本当に、至宝の三種の神器である。」
と、高らかに、宣言して、他の豪族を意見、見識において、寄らせなかった。

その時、末席にいた大臣蘇我入鹿氏は、鼻をほじった訳では無いのだが、
少し咳き込み、うつ伏せに笑ってしまった。
持病の疳の虫が、笑った訳では、無いが、
妙に変に咳き込み、周りには高笑いをしているように見えた。

前段前列の、祝詞のりとノリトを読み上げる
中臣鎌足氏と目があった。

彼は、祝詞のりとの天皇祝辞の、竹紙を、脇にやると、
「何がおかしい。貴様。」
と、刃物で切りつけるような言葉を、差し出し
蘇我入鹿氏は、
「失礼。」
と、これ又、高らかなうわずった声で返事し。
祝辞は、真剣和いまみえる中、静粛に終わった。


中臣鎌足氏と、蘇我入鹿氏は、
大臣と大臣おとど天皇親戚の関係にあり
祝辞、正式天皇法事以外は、何も、会わなかったが、
高句麗舶来天皇祝辞、白村江の戦いで日本大和倭寇が唐新羅に戦勝してからは
険悪の仲で、皇后妃が兄弟である外戚であるにも関わらず、両者共々、殆ど話しをした事が無い。

こうなったのは
何も、中臣鎌足氏が、一方的に悪いのでは無く、
仏教伝来の大法事、で、中臣鎌足氏が、舶来百済高句麗より取り寄せた法事の仏具を、宴席で
隣りの蘇我入鹿氏に、壊された事に端を発する。

「何度注意しても、蘇我入鹿氏は、遊びを直さず高価な天皇価値の、仏教伝来宝具を、壊す。
もう催事、天皇祭事には、入れない方が良いのではないか。」


皇極天皇、斉明天皇に、始原したが
何も、解答は無く、
「天皇催事は、何も、戦勝白村江の戦いで戦勝したと言っても、舶来の仏教伝来に頼るのでは無く、古今の日本大和神事で良いのでは無いか。」

と言う仏教伝来の神事催事に、消極的な意見だった。

拉致が開かず
中臣鎌足氏は、息子で子供の天智天皇、中大兄皇子に近寄り、
「催事日本神道の仏教祭事を汚す大臣は、要らない。
国の、不要なのでは無いか。」
と脅し、
乙巳の変、大化の改新に、及んだ。


蘇我入鹿氏打倒の後は、
舶来の、仏教催事は、滞り無く終わり、仏具を、壊される事は、無かった。


後に、蘇我入鹿氏の首塚を、仏教形式にするか
日本大和天皇神道にするか、
閣議が、催され、
皇極天皇、斉明天皇の判断で、
日本神道催事となり、今に至る。

又、蘇我入鹿氏は、乙巳の変大化の改新で
打倒される前、
不穏な宮中の空気を読み、
父親蘇我馬子の家に立ち寄り
「自分に、蘇我氏の豪族氏子継承の棺を欲しい。」と欲したが、父親蘇我馬子氏に断わられ、

逆賊で蘇我馬子氏を、自刃で討った跡が見受けられ
蘇我入鹿馬子の墓は、
逆賊の
天地敗道、天地廃道になっている。























継体天皇→安閑天皇→宣化天皇
欽明天皇→敏達天皇→用明天皇→崇峻天皇→推古天皇
→舒明天皇→皇極天皇、斉明天皇(三つ子)→孝徳天皇
→天智天皇→天武天皇→持統天皇→文武天皇→元明天皇、元正天皇(双子)
→聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇
→光仁天皇→桓武天皇


628年 白村江の戦い 皇極、斉明天皇
710年 平城京 元正天皇   唐の長安
794年 平安京 桓武天皇












桓武天皇


聖武天皇












第53代 淳和天皇




清和天皇  光源氏を、書いた。紫式部

陽成天皇 次男と長男
宇多天皇


醍醐天皇

平将門公





平城天皇 
光仁天皇


懿徳天皇
雄略天皇









履中天皇
雄略天皇