皇族出身の花魁がいると、江戸の街では有名で、桐穂が出ると言う時には、江戸の街には篝り火が焚かれ、朝な夕な人の群れが、大江戸街道、浅草、新宿まで続き、吉原遊郭は始終混んでいた。

桐穂は、「喩えるなら牡丹。霧島葛、霧島鬘が良く似合う。」と街の売り子に人気で、

桐穂を一目見たら、どの娘もどの息子も皆、霧島葛になっていた。


桐穂の1日は、早い。早朝、鶏が浅草輪生寺の鳴く頃には、おてもやん葛に手を染め、

他の娘の結いも仕上げてやり、

一番出汁で、味噌汁を他の葛の娘にも作ってやり、誰が、吉原吉祥の一番が分からなかった。


 桐穂には、美蘭と言う妹が居り

桐穂と同じ様に美女であったが、双子であった為、又、

桐穂と美蘭の親が、遠く孝明天皇縁りの伯爵家と言う家柄で、時々家臣、神楽が、御子の支度着換えと京都と江戸を行ったり来たりする為に、桐穂と美蘭、の支度は伯爵家譲りと、伯爵花魁と囃された。



桐穂に、年頃になり許嫁けが出来、京都清水寺の近所、近くの祇園へ引き揚げる事になった。


馴染みの客に、美蘭と挨拶周りしている時に、美蘭、が

誘拐されてしまった。


吉原遊女は、誘拐されると、「吉原ドブ街だよ。」と吉原ドブ街を攫ったが、美蘭、の遺体は発見されず、

取りあえず、美蘭、の双子の兄が、美貌の候爵家と言われる為、花魁に粉し、

桐穂と一緒に、京都祇園へ帰った。



美蘭の双子の兄は、美人と言えども、男故、男股でどしっ、どしっと歩き、やはり女好き故、

人街寄っては、神楽芸者と、巍巍に持て囃されあっと言う間に、伯爵家の団坪を売ってしまった。


美蘭の双子の兄は、そこに島原蘭と名付け、桐穂花魁がいるので、置き屋を経営し、何とか金勘定だけは合わせようとしていた。


桐穂、も、京都法隆寺に、許嫁けがいるとは言え、双子の美蘭の兄の破産は免れたい。

又、伯爵家の棟梁としての

「きんぞく」と言う発音が、東東南へ出て来ない。


「もう少し花魁修行すべきだな。」叔父の伯爵名代の法隆寺縁覚さんも

溜め息をつき

「このままでは、法隆寺縁覚さん伯爵家も潰れていまう。」

と、嘆き、伯爵家棟梁に見何処のある桐穂に、花魁修行と称し、伯爵家口称を頼んだ。


桐穂も頑張ってみるのだが、なかなか

叔父の様に、南南東へ

「きんぞく。」と出ない。



口唇を厚く曲げて、矢じりのように、太鼓のバチで笛を吹く様に。


何度も朝な夕なに、朝餉の支度が終わったら、

夕餉の支度の前に、木枯らしの吹きすさぶ中も試してみるのだが、出ない。


美蘭の双子の兄は、伯爵棟梁は、当に諦らめ、せめて子爵の物書きにでもと、

子爵は通った桐穂のお抱え秘書をしている。


桐穂は、美蘭の双子の兄や、法隆寺縁覚の叔父に頼られるのも悪くはないが、

曾祖父母楚々縁りの、瑞希花魁は


二気故、江戸吉原へ行かされ、5年の奉行で、本家伯爵令嬢を取る事が出来、「扇子が五月雨雨じゃあ。」


と親類伯爵縁者を喜ばせている。

 その伯爵縁で桐穂も期待されたが、京都祇園の許嫁けが、右左に喉を震わせ、侯と言えたからと、呼び戻され、

美蘭の双子の兄と、花魁道中、東海道膝栗毛と息込んでいる。


 侯は、侯爵家本義を意味し、非常に名誉である。

しかし、桐穂の家系から、伯爵名誉が出ないと、このまま、桐穂花魁置き屋で終わったてしまう。


五条天皇縁りの伯爵家としては、時代の困り事だ。

領地も田圃も、京都御所の伯爵取り分も

許嫁けの侯家に、代わり、

始めから流儀取り直しになる。

それは、それで良いのだが、伯爵家花魁として育った桐穂には、侯は少し難かしい。


幼馴染みの少尉二条院に乗り換えるか。嫌嫌、それ程、下がり過ぎても。

美蘭の双子の兄も

「少尉程迄にはな。」

と言っている。キセルが、葉煙草になる感じだ。かなり公爵伯爵家様様式と違う。


「あぁあ」

桐穂は、伯爵家未遂で終わった母の墓、法隆寺境内へ墓参りへ行った。






第108代後水尾天皇

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猿岩石 ヒッチハイクで、世界を旅する。昭和時代の子供達のTVの人気者。