レモンを齧ると、遠い記憶が蘇る。遠いギリシア神殿の、青い海と少し薄めのブルーの海、巨大な白い大型客船が行き交う。

白いカモメ達は、港のあちこちで餌を啄んでいた。



白いカモメに名前をつけるならジョリー、アリー、様々なエメラルド色の名前をつけてやろう。こんなに美しくても、どうせあと少しで旅立つ。ヤクザのような一夜限りの風景との出会い。




ここから、遠くのアジア、上海にでもレモンは売られ、私の思い出は噛じられていく。



ほろ苦い酸っぱさは、レモンのよう。ちょっと古いかなと、彼氏に出す、レモン酎ハイ、さわやかな色はないけれど、中近東の力強いモスクな感じは味わえる。




ストローのさきで中回転するモン、天の川は空を流れ酎ハイの中へ注ぎこんだ。

銀河の星々は、レモン。形は菱形、小学校の先生の大きく描かれた唇に似ていた。


先生の思い出は、喜劇のよう、笑って、彼氏に話せる逸話も多かった。


レモンに関わるショートストーリーを少し。


「レモン一個あげる。」クラスでも体格のいいヨシノは、ちょっと小さい、いつも席は前のほうの近眼のどんちゃん眼鏡をかけたメイにいった。


昨日、淡路島に嫁いだ従兄妹が、贈ってくれたんよ、ふうーん


なんとなく色っぽいレモンを手にして、頬に当てた。ひんやりした。ヨシノは、倫理道徳の時間、後二条天皇の奥さんの好きなもの、柏餅との授業後、柏餅が好きだといい、進学高には珍しく剣道部ができた。柏餅はメイのお爺さんの家業で、柏餅の名前で杵を造っている。柏餅はメイの名前の由来でもある。柏餅目。


ヨシノの従兄妹は、ヨシノと似て長身の美人で、こわれて淡路島の老舗の旅館に嫁いだ。ヨシノの家に遊びにいったとき何度か会った。


ミス淡路島にも選ばれた人で、なんとなくレモンに似ていた。淡路島の名産なのか、レモンの話題が、ヨシノから多くなった。レモン色の帽子、レモン色のマフラー、レモン色の手袋、コロナ禍では、レモン色のマスクをしていた。

レモン色の、彼氏、なんとなく思ったとき、担任が入ってきた。数学の授業は始まった。

レモンは、一つ、鞄の中へ入っていった。


家に帰り、ヨシノの話しをした。レモンをテーブルの上におき、コーヒーを一杯、藤次郎のコーヒーミルが、焦げたアーモンド色の焦げ茶のスープ状のコーヒー豆を多少底に残している。

ブルーマウンテン入りのミックスブレンドコーヒー。           

最近母親が、愛飲していた。その前は、アフリカのキリマンジェロ、「キリマンジェロに雪が降る」というハリウッド映画に感動して、百貨店で母親が、購入した。母親は、コーヒー党で、色々なコーヒーを試して飲んでいた。そしてコーヒーについているラベルを集め、切手みたいに収集本を作っていた。豆腐屋の娘、と父親はからかっていたが。メイはいつもブラジルのモカコーヒー、安い感じ、手軽な感じが好きだ。父親も同じ。

箒は軍隊を思い出すと父親は好きではなく、色んな掃除機を買い集め、とうとう円盤型の掃除機を買い、居間を掃除していた。掃除するのが好きで新しい掃除機が出ると電気屋に一番に並んで買いに行った。しかし円盤型掃除機は操縦を誤り、母親が大事にしていた花瓶を壊し喧嘩になった。しばらく父親は晩酌は、冷や酒月桂冠になった。時々ビールをレンジオーブンで温めホットビールにして飲んだ、爺さんが好きだったんだと顔をくしゃくしゃにしながら。

夫婦喧嘩が終わると、母親も晩酌に付き合った。スモモを入れたビールで無言の応戦をした。

父親は、また発売してすぐの大きな布団乾燥機を月賦でかい、ローンの組み合わせ、一括払いか、24回分割で多少

夫婦で争ったが、それはとても大きな畳半畳を占め、ガランガランと地響きをたてて動いた。

家に来たお客さんが腰を抜かすほどぐらんぐらんと音を立て地軸を動かすほどだった。結局布団乾燥機は、祖父が造船所を経営していた叔父から譲り受けたポルトガル産のアウディ、と重なり、庭で奇怪城になった。アウディを手放した頃叔父は破産した。そしてアウディは祖父が、

2、3回乗り排気量が日本と違うと庭に放置し、ほぼ廃車になった。自動車というよりは、錻力の大きな玩具になった。近くにアウディのオマケの電灯が立っており、月夜は布団乾燥機と壊れたアウディを照らし野鼠が顔を出している。ここはフランスね、祖母は笑っていた。妹の美海は、アウディのオマケの電気スタンドの側に、小さな入学式のお祝いの電気スタンドを置いておいた。小学校の入学式に親戚からプレゼントされた勉強机に蛍光灯がついてあり、要らなくなったのだ。アウディには、朝日ビールが一杯乗っている。両親が喧嘩した時、一緒に飲んで仲直りしていた。アウディの車は仲直りの車。母親はいつもアウディの御陰で上機嫌だった。父親は、予備校の受験の時に飛び入りで出題されたアインシュタインの相対性理論、ハレー彗星の軌道計算が忘れられないとシャペッツガルトのウイスキーを片手に、夢心地の母親に語ったことがある。すぐに長男が生まれたが、造船所の叔父の家に貰われて行った。当時遠洋漁業はアラスカ、ベーリング海峡に鯨を追いかけていた。日本の底引き網漁がアリューシャン列島以北、ベーリング海のシベリア魚体系を変えてしまうと話題になっていた。韓国北朝鮮が将来合併してベーリング海はアラスカ海になるだろうと、地上最年少外務大臣田中角栄氏が予言した。予言は的中、ロッキードが話題になる丁度10年前だった。アラスカ、シベリア、ハワイに日本語学校自民党が乱立した。数年で赤字倒産、田中角栄首相が誕生した。時々、長男に家族で会いに行くが、妹美海は会えない。ああ流れ星。

叔父は破産前ロックフェラー財団と親交があり、大きな白いヨットを持っていた。時々青い目の外人さんと横浜湾を一周していた。遠洋漁業に出てトドや海豹を釣りたいね、叔父はよく遊びに来ては祖父と話していた。



ペルシャ絨毯が、居間にある。祖父母のサウジアラビア旅行で買ってきた年代物だが、刺繍で赤く「あいしてる」と描いてある。その隣りに小さく青で「ゼウス」と書いてあり、祖父から祖母への結婚プレゼントだ。また祖父母の話しでは、絨毯屋さんの隣に大理石のゼウス神殿があり、祖父母は少し立ち寄り、お茶を少し飲んだ。ミントティー、サウジアラビアの砂漠のような色、味は蜂蜜を紅茶で溶いた感じ。砂漠の中のゼウス神殿での異国のお茶はさぞ美味しかったであろう。祖父と祖母の結婚の味。また絨毯に黒くコーヒーの染みがあり父親が祖父が亡くなったときに泣きながら飲んだコーヒーの染みだという。多分コーヒーはモカ。


母親は夕飯の支度をしていた。テーブルの上には、妹の美海が復習していた漢字ドリルが乱雑に置いてあった。

食器洗い機が、眩しく輝いていた。夫婦の結婚記念日と言って、両親が夫婦でK's電気で買ってきたエンゲージリングのようなものだ。

洗濯機が、ガアガアと唸っていた。美海がドッチボールの選手に選ばれ、毎日洗濯が大変よと、母親はプツリプツリ話していた。手は餃子を炒めるのを休めない。美海は妹だ。


今夜は餃子かぁ、レモンにはちょっと合わない。ナンプラーか、酢、トムヤンクン、ベトナムへも想いが馳せた。レモン一個の旅、淡路島にも行ってみようかな、ヨシノにお願いして。


夕飯を急いで食べて、塾に行く用意をした。電車に乗った。一駅先の塾へ着き、参考書を開いた。幾何学の授業が始まった。


帰宅時の列車は聡君が、ちょっと話しかけてきた。同じ中学の出で同じ数学をとっていた。夏休みに、ベトナムへ家族旅行をして買ってきたという変なペンダントをしていた。小さなサイの角のような象牙色でできていた。


ベトナムは熱くて、ベトナムコーヒーはおいしかったと小さなエクボで笑った。


悟君の友達に鰻屋嘉ちゃんがいた。高校のカリフォルニア臨時留学へ行き、アメリカ人の隣の敷地に入り、多分散歩。銃殺された。伯父さんは寝込み鰻屋は廃業、後妻さんの次男坊に飴屋を継がせた。修学旅行にアメリカが減った。鰻屋の伯父さんの赤ら顔、神長炭、備長炭で炙ったような大きな手。界隈で見なくなった。鰻屋嘉ちゃん、お腹の奥深くで黒い目をした鰻のように思いだすと苦しい。伯父さんはその後猟銃を買い込み又鬼になったという。熊の毛皮を着たような太陽の影を隠すくらい大きな伯父さんを見たことがある。全身真っ黒で赤ら顔だけが目立っていた。その後鰻屋も飴屋も廃業した。


母親の青いセーラー服とおさげの髪を臙脂の輪ゴムで留めたセピア色の写真があった。

母親は豆腐屋の娘で、父親とは近所、町内会のハイキングにいったとき、父親が一目惚れして、ハイキングのコースにある小川で、水の簪をつくり贈った。水の簪より萩の簪がいいのにねぇ、と80歳で脳梗塞で亡くなった祖母は話していたという。祖母は、祖父から結婚の時に贈られた銀の萩の簪を後生大事にしていた。祖母は長男が台湾出征したときの錻力の太鼓、ゼンマイ仕掛けで時計、祖父が大事にしていたロレックスの時計、日に、三度巻かないと止まってしまう代物。と同じ原理で動く時計ロボット。を大事にしていた。萩の簪と錻力の時計太鼓、台湾から長男は戻ることはなく購入した百貨店の社長が年代ものですからと時々来ては錆びもない錆びを駱駝の絹の手拭いで拭いていた。これはもう生産中止ですと来なくなってから大分経つ。祖父と祖母と錻力の時計太鼓、妹が時々ラジオ体操をしている元祖父の寝室に無造作に置いてある。埃を被っているし、もう何も動かない。錻力の太鼓は時計のように動かない

祖母は鼻歌を歌って寂しそうに叩きをかけていた。

妹の美海は成長期のアンバランスで多少感音性難聴があり、大鋸屑で作った耳掻きが、錻力の太鼓時計の隣に置いてあり、時々ミンクの毛の帽子、綿毛のようなパタパタで頭を叩くように別の祖父の耳鼻科医から指導されラジオ体操の合い間にパタパタしていた。庭に、父親が、同窓会で南アルプスに登り採取してきた春紫苑が揺れていた。祖母は多少糖尿と言われたとき、春紫苑のその小さな白い花を乾燥させて飲んだ。あっという間に糖尿は減り正常値に戻った。春紫苑は糖尿病の治療薬オイグルコンだ。祖母は美海の感音性難聴にも春紫苑が多少効くと思ったのか、春紫苑を生で、多少飲ませたが彼女は苦いと吐き出し、祖母は苦笑した。感音性難聴は妹の背が伸びる頃あっという間に治り、その後絶対音感と教師から言われ児童コーラス部に時々入り歌った。雨が降らない時は週に一度青空コーラスをしていた。青空コーラスは、時々ベートーヴェンとバッハのレクイエム、モーツァルトの軍隊ポロネーズを合唱した。小学校の鼓笛隊も時々青空コーラスに加わり、鼓笛隊の太鼓のバチを美海が、間違ってもってきてしまい、ミンクの毛の帽子の脇に転がっていた。太鼓のバチは、栃で出来ていた。


母親の写真のその隣に、回るベーゴマをじっと見つめる父親の写真があった。父親は、親のスパルタで、当時では珍しい塾にも通っていたが、進学校には、入学できなかった。結局家業の餅屋を継いだ。

正月には父親が作ったカイト凧で襖松を祝った。小豆餅膳、祖母が作ってくれた。小豆餅膳が世界で一番美味しいと思っていた。ビフテキに会うまでは。父親も同じだと言っていた。


 ベーゴマは、大昔の駄菓子屋で売っていたという。今なら百円ショップというところか。

 美海は、メイが、塾からかえるころには、二段ベットの上で、すうすう寝息をたてていた。

小さなレモンが枕元に転がっていた。


朝日が眩しい。アイルランド模様のカーテンから、光が差込み、茶色の机をうつしていた。鳥の声が、大きく聞こえた。


朝だ。田舎なら、鶏の声であろう。寺なら、朝の勤行の鐘と精進料理の麦の入った粥の湯気、学校の集団課題で去年、調査した近くの禅寺。鶏をいっぱい飼っていた。兎と鹿も。寺の鐘つき堂がいやに金ピカに磨かれていたのを覚えていた。


聡君とベトナムかぁ、進学はアメリカに行きたいといっていた。コロラド大学、眩しいくらいの太平洋の太陽、レモン一千個分くらい。きっと受かるよ。あんなに勉強しているんだもの。

聡君は、真っ白のナイキのスニーカーを履いていた。医者の叔父さんがアメリカで買ってきたお土産で、白の計算された歪曲から、すくっと立ちあがる姿がなんとも美しい。海外のABCマートの質屋で手に入れたという。靴紐は、キラキラしていて、ダイヤが散りばめられている。さすがナイキ、エアーシューズを履いたことがあるが、ふかふか感というか、絨毯の上に乗っている感じ、心地よさが、断然違う。

叔父さんも多少ABCのスニーカーを履いたのか、縁が少しへこんでいた。アメリカ帰りね、スニーカーに言ってみたくなった。


振り返って、自分はどうなんだろう。メイは考えた。NOVAに、進学にデイクテイトの科目が加わるというので、夏休みだけ通ったことがあった。


青い目の金髪のオジさんが、物凄い巨体で、部屋を精一杯独占し、授業は、対面の発音訓練。時々アメリカの9割以上が青い空の写真、カリフォルニアの大学の写真、覚えている。友達はカリフォルニア大学にするかな、といっていた。


カリフォルニアは坂が多く、路面電車が走っていた。路肩には椰子が生い茂り、ハリウッドカンパニーも近くにあった。NOVAの海外短期留学で、2ヶ月アメリカに行っていた友達は話した。友達は、真っ黒で、ランニング焼けをしていた。


メイは大学は近所でいいや、ふうっと思った。なんとなく受験勉強に疲れてきていた。十代なのに気分は、老いたる驢馬だ。ああ、もう一歩も歩きたくないと感じるときが最近あった。


「若年寄」、梅羊羹と抹茶が好きなメイは、友達によくからかわれた。茶道部に所属していた。ヨシノは、バレー部。細い長いカモシカのような足は、いつも男子生徒のぎらきらした視線の的だった。教師も時々見惚れていた。彼女が、白いレモンを片手に、It'is a lemon と微笑むなら、まるでCMのようだ。カリフォルニアが似合う。


レモンとカリフォルニアと私、なんとなく思っていたら、最後の体育の授業だと皆、教室をでていった。


秋の陽射しが眩しい。体育祭はもうすぐだ。