相国寺塔頭瑞春院 2
水上勉「京都図絵」より
今日は随筆から離れて、「雁の寺」のお話をいたしましょう。
瑞春院はまた、水上勉の小説「雁の寺(がんのてら)」のモデルとしても知られています。 「雁の寺」は4部作からなる長編で、第1部・雁の寺、第2部・雁の村、第3部・雁の森、
第4部・雁の死から構成されています。
第1部は昭和36年に発表され、その年の第45回直木賞を受賞しています。 「雁の寺」は雁のふすま絵があることから雁の寺と呼ばれている京都の禅寺で、口べらしのために仏門に入れられた14歳の少年・慈念が、数奇な運命をたどるという物語です。
若狭出身の貧しい大工の子、捨吉(後の慈念)。 深い禅の奥儀を具えているのに、女性との快楽にも目のない老住職の慈海。 慈念はその師匠の下で過酷な修行に耐えていました。 ある時、法事に訪れた祇園の元芸者・里子は、老住職の巧みな口説きと将来への不安から、 そのまま寺に住み着き老住職の愛人となります。 やがて慈念の出生の秘密を知った里子は、彼の孤独を身をもって慰めようとある夜、 慈念を抱きしめてしまいます。 翌朝、老住職が突然失踪します。 真相はわからないまま本山から後任の住職が来ることになり、二人は寺に居られなくなります。 「師匠のいるところへ旅します」という慈念の言葉にハッとなった里子が方丈へ駆けつけると、雁のふすま絵が無残にちぎられ、住職の慈海が殺されたことを知ってしまう…
という衝撃的な話です。 映画化され、芸者里子を若尾文子が演じています。
なぜ、瑞春院が雁の寺の舞台とされているのでしょうか?それはこちらに雁のふすま絵があるから。そして水上勉氏が実際に、少年時代をこちらで過ごしているからなんです。 水上氏は昭和10年、9歳の時に若狭から京都へ出てきて瑞春院に入りましたが、
親元を離れての禅寺での厳しい修行に耐えかねて、寺を飛び出してしまいます。 雁の絵だけは本当にあります。 本堂の上官の間(雁の間)に、上田萬秋作の雁のふすま絵8枚が残されていて、
水面に遊ぶ雁の優雅な姿を当時のままに見ることができます。
けれども修行時代の水上氏はこの雁の絵を見ていない、という興味深いエピソードが あるのです。 上官の間の手前に孔雀の絵があるのですが、それを水上氏はなぜか雁の絵だと思いこんで
いたのだそうです。 晩年、何十年か振りでこちらを訪れた際に「自分が見ていたのは孔雀の絵だった。 けれども入ったことのなかった上官の間に本当に雁の絵があった」と知った水上氏は、
不思議な因縁に鳥肌が立つ思いだったといいます。
当時、上官の間は客間として使われていて、子どもは入れてもらえなかったのでしょう。 孔雀の親子の絵を見るたびに、若狭の母を思いだして修行に耐えていた水上少年。 しかし彼にとってはこの孔雀の絵こそが、雁の絵だったのです。
随筆の中の言葉を引用しましょう。
「9歳から世話になって、20歳までいた禅宗寺院は、私の精神のかけがいのないものを残しました。いや、植えつけました。
かけがいのないその思いは、死ぬまで私にまといつき、私は、僧者でない身でありながら、血肉までにまといついてしまっている仏教というものの正体について、これからも、考え、考え詰めて生きねばならない、そのことが、私にとって重要であることがわかるのです」
☆ ☆
《私見》
誰でも人生の原体験というものがある。
その体験が、苦衷に満ちていればいるほどに、仏道に近いものになるというのは、先聖が口を揃えるところだ。
まことに、仏教は、その苦衷の体験によって、人を思考の世界に引きずり込むものだと思う。
「妙」なることというしかない。
仏の世界を信ずるとか、願い事をするとか、
というより、やはり、自己の魂を見つめざるを得ない世界ということだ。
水上氏のいうとおり、そこが仏道の「胆」なんだと思う。す。