石橋健一郎歌舞伎講演会
Ⅰ 日時 平成17年6月16日(木)午後2時~4時
演題 「座元の人々」
講師 国立劇場芸能部次長
石橋健一郎氏
会費 900円
会場 烏山区民センター
Ⅱ 日時 平成17年7月14日(木)午後2時~4時
演題 「世界に羽ばたく歌舞伎」
歌舞伎の海外公演を中心に戦後歌舞伎の思い出
講師 早大名誉教授 河竹登志夫氏
会費 900円
会場 烏山区民センター
東京都世田谷区南烏山6丁目
京王線 千歳烏山駅北口1分
http://www.city.setagaya.tokyo.jp/cgi-bin/sisetu/sisetu.cgi?mode=view&no=57
連絡先 nmwtg303@ybb.ne.jp 長谷川まで
さくらの語源
サクラの語源
漢字の「櫻」は中国では日本の「さくら」ではなく
バラ科の落葉高木「ユスラウメ」の木をいう。
ユスラウメは中国原産の植物で日本には江戸時代初期に渡ってきた。
ユスラウメの語源について、二つの見解がある。
①牧野富太郎博士の「枝をゆさぶって果実を落とした」からという説と
②深津正の朝鮮名の「移徒楽(いさら)」「イスラ」がなまったという説がある。
櫻の中国での意味は
「嬰(えい)」の字は
①みどりご(子供の泣き声がえんえんと続くさま)
②首飾りの事
③つなぐ、たてこもる等の意味があり
④音楽で「半音あげる」ことをいう、語源は雅楽から出た。
この場合は「赤い貝の首かざり」を意味する。
日本語の「みどり」は「みずみずしい」から
新芽・若芽を意味し、「みどりご」とか「みどりの黒髪」とか使われる。
赤子の事を「嬰児(みどりご)」と言うが中国では女の赤ちゃんが生まれると
赤い貝の首飾りをつけてその子の健やかな成長を願う行事がある。
「櫻(ユスラウメ)」の赤い実のつき方がちょうど赤子の成長を祝う時の
赤い貝の首飾りに似ているからだと言う。
「ゆすらうめ」の写真
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/yusuraume.html
日本で最初に「さくら」という言葉が出るのは
「日本書紀」で弁恭(いんぎょう)天皇が
衣通郎姫(そとおしのいらつめ)を思って詠んだ歌
弁恭天皇は仁徳天皇の息子
(日本書記巻13 弁恭8年2月)
花ぐはし 佐区羅(さくら)の愛(め)で、こと愛でば、
早く愛でず 我が愛づる子ら
「花が美しい桜のめでたさ、同じめでるなら
早くめでればよかったのに
遅すぎたことだ、私の愛する女よ」
日本の「さくら」の語源は
①作 楽(さく ら)説と
②佐 案(さ くら)説
③佐神説の3つある。
①の(さく ら)説は海彦・山彦の母上
木之花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)の
木の花「さくや」がなまって「さくら」になった。
「咲く」と
「たから」「ちから」「はしら」「かしら」等の語尾の
大切なもの、貴重なもの、中心となるものを意味する
「ら」と結びついて「さくら」になったという説
②は「早苗」「早乙女」と農業に関係する「さ」と
座 蔵 倉 鞍などの神が宿る「くら」が結びついて
「さくら」になったという説がある。
和歌森太郎氏の説
③佐神説
慶応大学名誉教授西岡秀雄先生が昭和25年に
発表され、学界で認められている説
西岡先生は世界中のトイレット・ペーパーを集めて
授業の材料した「トイレット博士」として著名な先生。
「佐」は太古における山の神の呼び名
クラは「高御座(タカミクラ)」のクラで
神が依り鎮まる「座」を意味している。
古代人の生活は何かと神に頼る事になる、
特に農作業の開始にあたって神事が行われる
「佐下ろし、田の神おろし」の行事がある。
佐の神は「さくらの木」に宿り、桜の花が咲く、
桜の花の咲く状況から農作業の手順を決めたり
その年の豊凶を占った。
各地の鎮花祭(はなしずめまつり)
奈良県桜井市の大神神社
滋賀県大津市の長等神社(三井寺)
「幣として 桜の花を枝ながら
山の主に今ぞ手向ける」
埼玉県大宮市氷川神社
京都市今宮神社の「安良居祭」
この他に
「サキムラガルがちぢまって桜になった」
「サクウルワシキに由来する」
「樹皮が荒くさけるゆえサクアラから桜になった」
などの説もある。
一葉の肖像
昨年、暮れから、一葉の日記を読み、
一葉の事を考えていたので
一葉さんが昔のクラスメートのような気がします。
4月17日のメールで私は下記のように書きました。
明治5年(1872)3月25日(新暦では5月2日)
樋口一葉は東京府構内砲地の武家長屋で生まれた。
現在の「千代田区内幸町 現日比谷シテイ辺り」
(昔、NHK放送会館.三井物産があった辺り)
父41歳、母37歳新緑の美しい頃で「なつ」と名付けられた。
この記述は間違いでした。
今年、旧暦で一葉の誕生日に当たる3月25日に
樋口一葉の生誕地である内幸町に記念碑が建てられました。
一葉の生誕地は東京府構内の武家長屋で
現在の千代田区内幸町1-5-2とあります。
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/news/release/20050325/0325_2.htm
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/tokusyu/chiiki/koujimachi/20050414/0414.htm
わたしの持っている多くの本が一葉の生誕地について、
日比谷公園の近く、日比谷シティあたりと書いてあります。
それで良く調べずに記述してしまいました。
まだ、実際に今年できた一葉の記念碑を見ていないのですが
内幸町1丁目5番地2は山の手線の新橋駅の近く、
第一ホテルと東京電力本社の間にある
T&Dファイナンシャル生命本社ビルのあたりのようです。
去年の秋、新5000円札は新渡戸稲造から一葉に変わりました。
5000円札の一葉の肖像を見た時、
普段見慣れている一葉の顔に比べて、
一葉の顔があまりにも痩せていてびっくりしました。
田中優子さんが去年出された本の題名のように、
「お金の肖像だけでも嫌なのに、私ではない いやだ」と
天国でさけんでいるような気がしました。
去年の秋、新5000円札が発行された時、
メールや雑誌で話題になったのは
第一は樋口一葉の肖像の事でした。
第二は一葉の男女関係でした。
①一葉の肖像については
半井桃水や一葉の家に遊びに行っていた「文学界」の仲間の人たちは
追悼文で一葉よりも、妹の邦子さんのほうがきれいだったと書いています。
皆様、家庭を持つ男の身ですから、何となく、わかりますが、
これでは一葉がかわいそうです。
一葉の写真は現在、10枚くらい残っています。
どれも、それほど不美人とは思えません。
医者で歌人の太田正雄(木下杢太郎)のお姉さん太田たけ子と一緒に撮った
おさげ髪に袴の女学生スタイルの一葉が一番現実の一葉に近いと思います。
新5000円札の肖像画は下記の写真3枚の合成のようです。
樋口一葉の肖像
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/ichiyou_2photos.html
下村為山「一葉像 落花」明治30年
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/10.html
今でも5000円札の一葉の肖像画になじめません。
私は下村為山が書いた「一葉像」を
そのまま、お札の肖像画にすればよかったと思います。
一万円札の福澤諭吉先生の肖像画は素敵なのですが
私にあまりいついてくれません。
先生にはどうも見捨てられたようです。
②一葉の男女関係について、
これについて、メールや雑誌でいろいろ書かれているのを読みました。
ひどいのは一葉が売春に近い事までしていたという記述もありました。
それまで読んでいた本でつぎのような意見があるのも知っていました。
1、多くの学者は男女の関係はなかった。
2、瀬戸内寂聴さんはあったという、
3、森まゆみさんはあつたかなかったかわからないがあったらよかったのに、
4、田中優子さんはそれが女性に対する偏見であり、女性蔑視、差別だ。
5、田辺聖子さんはそれには触れずにそこまでの過程を上品に詳しく書いています。
瀬戸内寂聴さんの本を読んだ時の印象は強烈でした。
前から一葉に感心があつたので
昨年、暮れから一葉の日記を読み始めました。
私の結論は男女関係はなかったように思います。、
一葉の日記を読んでいると男性や世間に対する評価が
あまりにも原則的できびしいように思うからです。
異性を愛する経験をすればもう少し心に余裕が生まれ
他人に優しくなるのではないかと思うからです。
以上
一葉と桜 上野車坂
山櫻今年も匂う花影に散りて帰らぬ君をこそ思へ
この歌は明治24年4月、19歳の一葉が詠んだ歌である。
一葉はこの年から本格的に日記を書き始め、
その日記の最初の日に書かれた歌でもある。
この頃の一葉は
①明治20年一葉の兄泉太郎が24歳で死去
二番目の兄寅之助は染付けの職人の修行中の身、
その上徴兵逃れのために別の家の戸籍になっていた。
一葉の父は頭が良く、しっかりしている一葉に期待したのだろう、
樋口家では一葉を樋口家の相続戸主にした。
母や妹の面倒を見なければならないという責任感が
後の文学を書く原動力になった。
②明治22(1889)年父の事業の失敗と死 父享年58歳
樋口家に多額の負債を残したという。
一葉の家が貧しくなった第一の原因である。
③阪本(渋谷)三郎との婚約破棄事件
一葉の父が江戸に出てから世話になった郷里の先輩真下専之丞の孫で
その頃早稲田大学に通っていた渋谷三郎と一葉は婚約をしていたが
父の死後、樋口家にお金がない事を理由に渋谷家から、婚約を解消された。
渋谷三郎は後に検事や早稲田大学の法学部長に出世した。
この事は一葉の心を傷つけ男性への不信感が生まれたが
一葉の結婚への願望は生涯消える事はなかった。
一葉の初期の作品「闇桜」等身分違いの片思い文学が多い。
④萩の舎での住み込みの助手への幻滅
一葉は父が死んでから5ヶ月ほど歌塾「萩の舎」に住み込み、
内弟子生活をした。
あまり家事が得意でない一葉には辛かったようだ。
師匠の中島歌子は女学校の教師の口を紹介してくれる
約束であつたが学歴のない一葉には無理な話である。
住み込んでいれば歌塾や中島歌子の実像がみえてしまい、
その花鳥風月的な歌に疑問をもち批判や幻滅が生まれた。
又、歌子に付き添い上流階級の家に出稽古に行くなかで
上流階級の家の裏側を見てしまう。
「おおつごもり」は萩の舎の住み込み体験談。
一葉はその後,社会の底辺に住む人にも目をむけ
人間の本質を見つめることができるようになり
一葉の文学は花開くことになったが
一葉の上流階級への憧れは消えなかったと思われる。
⑤父親の死後母親と妹邦子は陶器の染付け職人の修行中の
高輪に住んでいた次男寅之助と同居するが母親の気性と
芸術家肌の寅之助と折り合いが悪く同居がうまく行かない。
一葉の小説「うもれ木」のモデル
明治23年9月本郷菊坂70番地(現在の本郷4丁目32番地1)に
母の滝、一葉それに妹の邦子の3人は本郷菊坂に家を借りる。
現在の東大の赤門と後楽園との中間地点で
菊坂から中程の一段下がったうなぎの寝床のように谷間である。
現在も一葉も使ったという井戸がそのまま残っている。
菊坂の中程には樋口家が通った『伊勢屋質店』の建物がある。
本郷菊坂周辺地図
http://homepage3.nifty.com/namm/index2.htm
http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/1203.html
本郷の菊坂に越して借家住まいの始めたが
3人で針仕事,洗濯の仕事和服の仕立てや洗い張りで
生計を立てる状況で、生活は苦しかった。
当時の仕立賃は、袷(あわせ)1枚、15ー20銭、
3人で収入は月5円から6円程度と計算される。
そのうち家賃は2円50銭
一葉は博覧会の売り子にも応募したがうまく行かなかった。
自分で歌塾を開けるほどの資金はなかったし、
一葉が歌塾を開くことは中島歌子に反対された。
参考
明治23年、漱石、子規は東大の英文科に進む、
漱石は奨学金を年額85円貸与された。
子規は松山藩の給費生として月額7円が給付されていた。
明治21年9月鴎外、ドイツから帰国、
明治23年鴎外「舞姫・うたかたの記」を発表
その頃、萩の舎の先輩田辺花圃が「藪の鶯」という小説を書き
原稿料33円を貰ったことを聞く、花圃が書けたなら、
一葉も小説を書いて、親子3人の生活費を稼ごうと考えた。
一葉の家では妹邦子の女友達の野々宮きくの紹介で
東京朝日新聞の小説記者:半井桃水の家の洗い張りの仕事を頼まれていた。
一葉は花圃が坪内逍遥を師として、小説を書いたように
自分も桃水を師として小説を書こうと考えた。
野々宮きくを通して、半井桃水に弟子入りの希望を伝えると
桃水から、「今、東京朝日新聞に「月黄昏」という連載小説を書いていて、
4月12日に連載が終わるから、4月15日にお会いしたい」という連絡を受けた。
半井桃水の写真
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/09.html
朝日新聞で売れている小説を書いている桃水に弟子入りできれば、
自分も小説が書けるに違いない、
桃水は5代目歌右衛門に良く似た美男子だという。
一葉の心には不安よりも、期待のほうが大きく膨らんでいった。
一葉にも心のゆとりが生まれたのだろう。
4月11日「萩の舎」の同僚、吉田かとり子の向島の隅田川のほとりの家で
開かれる花見の宴に出かける余裕がうまれた。
一葉が本格的に書き始めた「若葉かげ」は
明治24年4月11日
「花にあくがれ月にうかぶ折々の心をかしきもまれにはあり、」
という書き出しで始まる。
その日、向島の吉田かとり子の家に行く前に、一葉は
久しぶりに妹を連れ出して、上野の山に桜見物に出かける。
樋口家は父の在世時代、下谷御徒町(現在の御徒町駅付近)や
下谷黒門町(現在の上野駅付近)に住んでいた事がある。
明治24年の9月には上野~青森間全線が開通するので
上野駅の周りも父と住んでいた数年前と比べて大きく変化した。
上野の山の桜を見てから、車坂に通りかかる。
(車坂は上野駅の公園口からアメ横の入口までの坂道)
父と住んでいた頃の数年前の面影は上野駅のまわりには残っていない、
あの頃、父と一緒に櫻の花を良くながめたねと妹の邦子が語る、
一葉は日記を続け、一首を詠む
「 むかしの春もおもかげにうかぶ心地して、
山櫻ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ
心細しやなどいふま々に、朝露ならねど二人のそではぬれ渡りぬ」
日記は続く、
一葉は4日後の4月15日、
雨が少し降る、昼過ぎ、半井桃水へ
小説書きの弟子入り願いのために
芝の南佐久間町の家に行く。
(現在の山の手線新橋駅の近く)
一葉は桃水の前で上がってしまう、日記には
「耳ほてり唇かわきて、いふべき言もおぼへず」
述べるべき挨拶の言葉も出てこない、状態になってしまう。
と書かれている。
さらに、一葉は日記に桃水の印象を書く。
「色いと白く面おだやかに少し笑み給へば
誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆる」
一葉は桃水に対して,憧れ以上の感情を持ってしまった。
これは一葉の父離れの時であり、
少女から、恋する乙女へと変化する動きを
一葉が自らの日記のなかに書きとめた事になる。
半井桃水は一葉が生涯忘れられない恋人であり、
一葉の小説家としての才能を最初に見つけた人である。
一葉に対して,小説の書き方を直接指導し、
翌年、3月には桃水が発行した同人誌「武蔵野」に
一葉の最初の小説「闇桜」が掲載される事になる。
小説家「樋口一葉」誕生の第一歩に
大きな力を貸した人である。
以上
一葉の父樋口則義 法真寺の桜
一葉と桜3 「桜木の宿」
一葉の父大吉と母あやめの
山梨の故郷の村を出てきてからの
江戸での軌跡を書いてみる。
「私の力不足から、一葉の父の評価が纏まりませんでした、
面倒かもわかりませんが簡単な略歴を読んで見てください。
江戸から明治という変革の時代に生きた一人の男の姿が浮かび上がります。
江戸末期の1両は現在の10万円位と考えられます。
一両と一円は同じといいますが当時の一円は現在の3万円位でしょうか。」
安政4年(1857)6月 母あやめは長女ふじを出産後、娘を里子に出して、
旗本 稲葉大膳(2500石)の娘鉱の乳母にあがる。
乳母の給金は月3両・仕着料1両・里扶ち+小遣だった。
同年7月 26歳の大吉は同郷の先輩 真下専之丞の世話で
蕃所調所(幕府の西洋学問所)の小遣に採用される。
大吉はABC(英語)を勉強していると日記に付けた。
(現在の感覚なら臨時採用のアルバイト)
安政5年(1858)8月 大番組与力 田辺太郎に従い大阪に行く。
大阪城の警備の仕事に就く。
(一年契約の臨時雇い契約社員)
安政6年(1859)10月 御勘定組頭 菊地大助の中小姓になる。
この時、給料は月4両一人扶ち(私設秘書)
文久2年(1862) 主人の菊池大助が勘定吟味役役料300俵に出世する。
文久3年(1863) さらに、大目付に昇進,表高壱千石の外国奉行を兼任する。
それに伴い大吉も出世、公用人(本採用)となった。
大吉は勤めを替えるたびに出自を偽るためか何度も名前や履歴を変えた。
しかし、頭も良く、故郷の父への詳細な報告や日記、家計簿が残っているのでも
判るように筆まめで字もきれい、勤務態度も、誠実で真面目だったのだろう。
酒色に近づかず、役得の金をコツコツ貯めて武士になる機会を狙っていた。
慶応3年(1867)5月、村を出てから10年、36歳の大吉は
南町奉行配下八丁掘同心浅井竹蔵(30俵2人扶持)の株を入手する。
同心株100両+浅井家の負債肩代り金300両の合計400両を支払う。
(内250両は50年の分割払い)。
(現在の金額に換算すると約4000万円位だという)
八丁堀同心として坪100坪、建坪8坪の大縄組町屋敷に住む。
陸軍奉行並にまで大出世した同郷の先輩真下専之丞の後ろ盾で、
4000万円という金の力を借りて農民から武士になれた事になる。
慶応3年(1867)10月徳川慶喜の大政奉還で江戸幕府は瓦解
慶応4年(1868)5月21日官軍の命令で南町奉行所は廃止
大吉が武士でいられたのは1年足らずだったが、
明治維新後、横滑りのような形で東京府庁記録方に勤務できた。
東京府庁、警視庁での大吉の官位は最後まで九等官で終わった。
最初の月給は10円、明治20年の警視庁退職時は25円だったという。
漱石の父 夏目直克は大吉よりも15歳年上で警視庁では上司であった。
漱石の家は代々名主の家であつた。
江戸時代の名主は村の行政、治安業務の役目をになっていた。
明治政府は名主の仕事を継続する為、維新後も警視庁で雇ったのである。
夏目直克は警視庁で6等級、月給30円という記録がある。
明治5年(1872)3月25日(新暦では5月2日)に
樋口一葉は江戸から東京になったばかりの東京で生まれた。
幸橋内東京府庁砲地旧郡山藩柳澤邸長屋
東京府第二大区一小区内幸町御門内一番屋敷
(現在の千代田区内幸町1-5-2)
大吉41歳、母37歳次女として、生まれました。
新緑の美しい頃で「なつ」と名付けられた。
二人の間には長女ふじをはじめ、長兄泉太郎、次兄虎之助、
次女奈津(一葉)、三女邦子の計5人の子供に恵まれました。
平成17年、旧暦で一葉の誕生日に当たる3月25日に
樋口一葉の生誕地である内幸町に記念碑が建てられました。
千代田区内幸町1丁目5番地2は山の手線の新橋駅の近く、
第一ホテルと東京電力本社の間にある、
T&Dファイナンシャル生命本社ビルのあたりのようです。
隣の千代田区内幸町区民会館に記念碑があります。
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/news/release/20050325/0325_2.htm
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/tokusyu/chiiki/koujimachi/20050414/0414.htm
現代風に考えれば大吉は37歳で会社が倒産、運良く、別会社に就職できたが
それまで何かと後ろ楯になってくれた郷土の先輩は幕府の瓦解で隠居をした。
これで出世の望みも絶たれたと大吉は考えた。
そればかりかそれまでの漢字が中心の社会から、
欧米に追いつこうと英語が重要視される時代になっていた。
大吉は明治という大変革の時代についていけなくなった。
出世の望みのなくなった大吉はそれまで以上に副業に精を出すようになった。
又、自分の出来なくなった夢を子供にかけるようになり、
子供の教育を熱心に行った。
一葉の父は明治になってから、則義と改名届を出している。
これからは一葉の父は則義と書く
第一、一葉の父則義の副業
明治になってから東京府の下級官吏として樋口則義は
戸籍係や屋敷取調係、社寺取調係を歴任していた。
これらの職務には裏収入があったようだ。
①屋敷取調係で得た知識でその頃,藩々置県で
郷里に帰った武士の屋敷を払下げてもらい
土地売買をして利益をあげた記録が残っている
②社寺取調係の時に知り合った社寺の借地を管理して、
借地料や貸家料の1割を管理料として収入を得ていた。
③郷里の知り合いなどにお金を貸し、年3割という、
現在のサラ金なみの利息を取っていた。
多い時には月300円も貸していたという。
高利貸しをしていれば今のサラ金のようなトラブルもあつた。
「明治20年5月31日 関根孝助に貸金取立訴訟に勝つ」という記録がある。
父親の貸し借りによるトラブルを小さい頃から、一葉は見ていた。
後年の一葉が「お金を浅ましいものと」考えた、金銭感覚の育成に
父則義の高利貸しをした事の影響がないわけはないと思われる。
明治初期の日本は江戸から明治への変革期であった。
廃藩置県で江戸を離れた、武士の藩邸が沢山余り、
不動産売買は量も多く、インフレで利ざやが稼げた。
現代のバブル景気の成金のように、
明治初期に土地売買を副業にしていた一葉の父も景気が良く、
その頃、一葉の家に訪ねて来た山梨の郷里の者に、
則義が金の延べ棒を見せて自慢していたという記録がある。
明治14年の政変
明治政府は近代国家への社会経済施設の整備
武士への多額の退職金の支払などで貨幣の発行が急増していた。
そのため明治初期の経済社会は急激なインフレ経済になった。
この頃、大蔵大臣になった松方正義はデフレ政策に変更した。
明治17年頃の日本は不況が激しくなり、会社や銀行の倒産が多くなった。
現在のバブル経済の破綻と同じような経済社会になった。
樋口家が貧しくなった理由①この頃から、父の副業もうまく行かなくなった。
明治20年 57歳の則義は警視庁を退職
明治21年6月59歳の則義は自ら荷馬車運送の組合設立に取り組む
当時,開業した鉄道駅の近くに運送会社を作るという発想は悪くはないが
当時のデフレ政策の影響を受けた経済情勢と
一緒に事業を立ち上げた仲間が悪かったようだ。
明治22年2月59歳 荷馬車運送の組合設立事業は失敗に終わる。
明治22年7月 一葉の父則義は病没する。
樋口家が貧しくなった理由② 父の事業の失敗で多額の借金が残ったという。
第二、一葉の父の子供たちへの教育
一葉の父は子供たちの教育に熱心だった。
①一葉の9歳年上の兄泉太郎の経歴
樋口家では長男で頭の良かった泉太郎に期待する所は大きかった。
しかし、病弱で明治17年1月結核療養のため熱海に出掛けた。
明治18年明治法律学校(現明大)に入学した。
当時、大学進学は珍しいことである。
明治20年6月明治法律学校を中退して、大蔵省に勤める
同年9月 外出先で喀血
同年12月27日 死去 享年24歳
その頃、漱石の父夏目直克は警視庁で一葉の父の上司であった。
明治20年、夏目家でも漱石の二人の兄大助と栄之助を失った。
漱石の兄・大助 安政3年(1856)~明治20年の経歴
明治12年 肺を病んで東京開成学校(東大)を中退
同年2月 警視庁翻訳係に勤める 月給40円
明治14年(1881)1月 警視庁から陸軍省に転職 月給45円
明治20年(1887)3月21日死去 享年31歳
夏目大助が警視庁の翻訳係に勤めていた頃、一葉の父も同じ職場にいた。
その頃、一葉には大助或は漱石との婚約話もあったという話がある。
兄樋口泉太郎の葬儀では夏目直克から香典50銭、という記録がある。
樋口家が貧しくなった理由③兄泉太郎の治療費が家計を圧迫した。
②一葉の教育
一葉は小さい頃から、本を読むのが好きな子だった。
一葉の父は一葉に沢山の読み物を買い与えた。
歌の才能もあったようだ。
ほそけれど人の杖とも柱とも
思はれにけり筆のいのち毛
一葉が小学校の頃に詠んだ歌だと妹邦子が書いている。
あまりにも出来すぎた歌であるが後に社会の底辺を見つめた
一葉の文学の萌芽が感じられなくもない。
一葉は母の反対で小学校を途中退学した。
女には学問はいらないと考えられた時代である。
学校を途中で止めたことはそれほど非難される事ではない。
一葉は家事の手伝いをしながら、
当時の花嫁修業である裁縫などを習ったが裁縫はあまり得意ではなかった。
そのような一葉を見ていた父は古典文学の素養をつけて、
将来、書や歌の先生として生計を立てさせようと考えるようになった。
当時の上流階級の令嬢達が通った「萩の舎」に和歌の勉強に行かせた。
14歳の一葉は源氏物語などの古典文学と和歌を勉強する機会が与えられた。
ここから、後に和文擬古文のような一葉の文体が生れる事になる。
又、萩の舎の同僚は一葉が作家になるための女性応援団になった。
最後に樋口一葉の生涯で一番裕福で幸福であったと思われる
時期と場所について書いておく。
それは一葉が4歳から9歳(明治9年4月から明治14年7月)までの5年間
本郷の東大赤門と道を隔てた法真寺の隣地に住んでいた時代である。
一葉の父は明治7年8月45歳の時
東京府知事から士族であつた代償として476円を受け取った。
内訳は家禄13石の6年分で米78石(右代金220円現金、250円公債証書)
その金とそれまでの蓄えとを加えて、本郷の法真寺の隣で
宅地230坪、建坪45坪の屋敷を当時の金550円で買った。
一葉が住んだ場所、現在の東京都文京区本郷5丁目26
法真寺の玄関前の、現在、駐車場になっている所である。
法真寺の境内には一葉記念館があり、
毎年、一葉の命日には「一葉祭」が開かれている。
http://homepage3.nifty.com/namm/index1.htm
http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html
一葉が住んだ本郷のお屋敷には大きな桜の木があったという。
晩年の一葉は、本郷の家を懐かしみ
自ら「桜木の宿」と命名して随筆に書いている。
「かりに桜木の宿といはばや、
忘れがたき昔しの家にはいと大いなるその木ありき,
狭うもあらぬ庭のおもを春はさながら打おほふばかり咲きみだれて、
落花の頃はたたきの池にうく緋鯉の雪をかづけるけしきもをかしく
松楓のよきもありしかど、これをば庭の光りにぞしける。」
晩年の手記から 雑記「詞がきの歌」より
法真寺は関東大震災にも、東京大空襲にも焼け残ったという。
一葉が見たままの山門が現在も残り、
一葉が小説「行く雲」の中で
「腰ごろもの観音さま、濡れ仏にておはします御肩あたり、
膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、
前に供えしシキミの枝につもれるもおかしく」と書いた。
腰ごろもの観音さまは現在、本堂の左脇に置いてある。
本堂の前の桜は里桜(普賢象)なので4月中旬、花開いているだろう。
花びらが観音様の膝のあたりに、はらはらとこぼれているであろう。
以上
桜の種類
桜の種類について、
桜の植物分類学上の位置
桜はバラ科に属する
バラ科の中に 1.バラ属
2.サクラ属
3.リンゴ属
4.ナシ属等がある。
バラ科サクラ属は大きく4つに分かれ。
①サクラ亜族
②ウワミズザクラ亜族
③バクチノキ亜族
④モモ亜族 桃やアーモンド
⑤スモモ亜族 梅、アンズ、スモモ
③バクチノキ(博打の木)という名前は
樹皮が松の木のように剥がれ、
一部の樹皮が剥がれている様子を
博打で負けて衣装を剥がされた時の姿に
似ていると言うので付けられた。
秋にイヌザクラの花に似た白い花が咲く
樹皮は咳止め、鎮静剤の薬になる。
バクチノキの画像は下記のアドレスを
クリックするとご覧になることが出来ます。
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/bakutinoki.html
①サクラ亜族は4つに分かれ。
1、サクラ節 山桜と里桜
2、ユスラウメ節 中国から渡ってきた。
3、セイヨウミザクラ節 明治時代に西洋から
4、ミヤマザクラ節 高地に咲く桜
ユスラウメ(ゆすら梅)の画像は下記のアドレス
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp//BotanicalGarden/HTMLs/yusuraume.html
日本の桜は大きく二つ、山桜と里桜に分れる
1、山桜(野生種、自生種)
約12種類
もともと日本の山野に自生していた桜
名前の語尾に山桜、豆桜と桜が付く
2、里桜(栽培品種、園芸品種)
人間が作り出し、栽培している桜
250品種以上ある。
名前の語尾に染井吉野、御衣黄と桜がつかない
八重桜、彼岸桜と例外はある。
日本に自生する原種12種類の桜について、
1、寒緋桜 (カンヒザクラ)
http://www.pref.ishikawa.jp/ringyo/sakura/data/kanhizakura.htm
中国や台湾の桜、石垣島に自生する
早春の寒い頃から開花する
花の色は濃紅紫色、花弁は5個
花は平開せず鐘形に下垂する。
花びらがくっいたまま落花
最近、東京でも咲き、人気がある
別名 緋寒桜(ヒカンザクラ)
学名はcampanulata「鐘型の」
2、江戸彼岸桜(エドヒガンザクラ)
http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/spring/edohigan.html
山地に生え高さ20m以上の高木になる。
花はやや小型で花弁は5個
花色は紅色から白まで変異が大きい
東北地方では花の色が濃く、
生息地が南下すると白くなる傾向
若木は花の色が濃く、老木は白くなる
しだれ桜はエドヒガンザクラの変種
花は彼岸の頃、咲き、性質が強く、長寿なので
各地に巨木、名木で残り、天然記念物も多い
花柄が膨らみ、蕾の時、ひょうたん型なので
「ひょうたん桜」とも呼ばれる
開花時、葉が出ないため「姥桜」とも言われる。
3、山桜 (ヤマザクラ)
http://www.pref.ishikawa.jp/ringyo/sakura/data/yamazakura.htm
日本の野生桜の代表、山地に広く自生
高さ20m以上の大木も各地で見られる
花は直径3cm、色は淡紅色を含む白色
褐色の新芽が開花と同時に芽吹く、
花よりも葉が先に出ているので、
出っ歯の人を山桜という。
4、大島桜 (オオシマザクラ)
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/oosimazakura.html
伊豆地方に自生する桜、緑色の葉とともに咲く
花色は白色で直径4cmと大型、芳香がある。
葉を塩漬けにして桜餅を包むのに使われる
染井吉野を始め、里桜の母種になっている
丈夫で成長が早く、他の桜の接木の台木となる
薪を作るために植えられ「焚き木桜」ともいう
5、大山桜 (オオヤマザクラ)
http://www.pref.ishikawa.jp/ringyo/sakura/data/ooyamazakura.htm
普通の山桜に比べて葉や花が大きい
寒地の山地の桜で高さが15mになる。
花芽は寒地で生育するために粘性を持つ、
花は大型で、花弁は5個
花の色は紅紫色で濃く、別名 紅山桜
北海道に多いので、蝦夷山桜とも言う。
6、霞桜 (カスミザクラ)
http://www.pref.ishikawa.jp/ringyo/sakura/data/kasumizakura.htm
山地に多く自生する
高さ25mになる木もある
花は葉と同時に白色から淡紅色
山桜に似ているが花期は遅い
「ケヤマザクラ」は近似種?
7、豆桜 (マメザクラ)
http://www.pref.ishikawa.jp/ringyo/sakura/data/mamezakura.htm
落葉の小高木、
花は小型で白色又は淡紅色
挿し木でも簡単に育つため
桜の盆栽は豆桜系が多い
富士箱根に多いので別名が「富士桜」
8、高根桜 (タカネザクラ)
http://www22.ocn.ne.jp/~tamukai/takazaku.htm
夏に咲く高山の桜
日本の桜の中で最も標高の高い所で咲く桜
高山は強風のため、背が低く、幹は太い
花が咲く頃、葉も同時に出てくる
花は淡いピンク色、
別名 ミネザクラ
9.丁子桜 (チョウジザクラ)
http://www.genetics.or.jp/sakura/PCD/PCD0338/pages/10.html
毛深くて花は丁子そのまま
落葉小低木、アジサイのように根元から幹を出す
花は沈丁花のように長い筒型で白色、
花の芯部が淡紅色で別名が「メジロザクラ」
10. 深山桜 (ミヤマザクラ)
http://www.genetics.or.jp/sakura/PCD/PCD0338/pages/64.html
深山で葉が伸びてから花が咲く
高さ15m位になる木もある。
花期は5月下旬から6月 花は白く、小型
4~7花が寄り添い上向きに咲く
深山桜の材は堅いので家具や運動用具の材料になる
番外1.山桜の 稚木の桜 (ワカキノサクラ)
http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/spring/wakaki.html
>
落葉低木、樹高は2~4m
花序は散形状で2~3花からなり
白色で基部がごく僅か淡紅紫色を帯びる
「稚木の桜」は、他の桜と性質が違うという。
http://www.jjbot.com/Japanese/Vol.76/76-6.html
番外2、サクラ属②
ウワミズザクラ亜族の犬桜 (イヌザクラ)
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/inuzakura.html
花が「猫じゃらし」のような形をした桜
占いに使われ、よく神社に植えてある。
高さは10mから15mになる。
4月から5月に咲き、
花色は白く 別名シロザクラ
同じ「江戸彼岸桜」でも各地に残っている古木は
野生の桜10種が自然交配を重ね、
各地域の生育環境にあわせて
微妙に違う江戸彼岸桜になっている。
日本の桜は一本一本がそれぞれ
個性豊かな雑種なのである。
この事は日本の野生のすみれにも言える。
日本のすみれは基本種が約60種あり、
その地方的な変化や交雑種を数えると
約300種以上になるという、
日本は江戸時代までそれぞれの地方の
文化を尊重した多様化した社会だった。
それが明治の欧米化近代化が進み
日本の桜の8割は「染井吉野」という
画一的な社会になってしまった。
桜の種類についてのお薦めHP図鑑
このはなさくや図鑑~西宮の桜~
http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/index.html
財団法人 日本花の会 桜図鑑
http://www.hananokai.or.jp/zukan/zukan.htm
群馬大学青木先生の「 植物園へようこそ!」
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/BotanicalGarden-F.html
三島市の財団法人遺伝学普及会
故竹中要博士 遺伝研の桜
http://www.genetics.or.jp/Sakura/index.html
石川県林業試験場 さくら品種図鑑
http://www.pref.ishikawa.jp/ringyo/sakura/index.htm
八王子市 多摩森林科学園ホームページ
http://www.ffpri-tmk.affrc.go.jp/
桜図鑑 http://www.mmbc.jp/mmbc/sakura/zukan/01.html
埼玉県新座市 跡見学園女子大学のHP
一葉と桜2 一葉のペンネームと八重桜「一葉」
樋口一葉の名前の由来と一葉桜
1、一葉のペンネームの由来
① 達磨大師がのる芦の葉
樋口一葉のペンネームは昔インドの達磨大師が、中国の揚子江を一葉の芦の葉に
乗って下ったという故事に因んだもので一葉は「達磨も私も、おあし(銭)がない」
からだと貧乏をしゃれのめして友人に答えたという。
「我こそはだるま大師に成にけれ
とぶらはんにもあしなしにして」 一葉の歌
明治27年4月、萩の舎の親友伊東夏子に送った手紙に次のような文章と歌がある。
「芦の一葉にのりて舟遊山をしたる達磨大師さへ御座候ものをや
[行く水の浮き世は何か木の葉舟
流がる々ままにまかせてをみん]一葉作
かくうたひたる時我は笑ひしか なきしか君こそ思ひやらせ給ふべけれ」
②一葉万里説
浮き世という荒海に「漂う舟」という表象したものという説
「なみ風のありもあらずも何かせむ
一葉(ひとは)のふねのうき世なりけり」 一葉の歌
この2説は一葉の名前がペンネームとして定着してからの文章である。
③西川佑子の説
大正11年(1921)山梨県塩山市慈雲寺に一葉の碑が建立された時、
式典に出席した半井桃水が寄書帖に
「一葉散りて秋知る文の林かな」と記している事と
萩の舎の親友伊東夏子から一葉にあてた手紙の一節に、
「武蔵野にもえ出し一葉比林の花も紅葉もしのぎて
茂りゆかん事遠からず存候」とある。
この二つを受けて、桃水が発行する同人誌「武蔵野」に
一葉の最初の小説「闇桜」を掲載する時、
桃水は「若い女が実名で小説を発表すれば、不便が生じるであろう」
と言い、ペンネームを「文の林に萌え出つる一葉はどうか」と
薦めたのではないかという説を述べている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~takeko/mamechishiki.htm#mame24
坪内逍遥の「桐一葉」は明治29年の作なので関係はないようだ。
O・ヘンリーの短編「最後の一葉」とも関係がないと思われる。
2.「一葉」という名前の桜
山桜の名前は「江戸彼岸桜」「大島桜」「山桜」と最後に桜が付き、
里桜の名前は「染井吉野」「普賢象」と最後に桜が付かないのが原則。
この原則に従い、里桜の中に「一葉」という八重桜がある。
東京の公園ではよく見られる種類で、4月中旬
ソメイヨシノが散り終わった頃から咲き始める。
大きな特徴は
下半部が葉化した緑色の雌しべが普通一本突き出て咲くので
「一葉桜」と呼ばれている。よく見るとめしべが2本ある花もある。
オシベは退化して短い、垂れるように咲く。
花経が5センチ、花弁は20から25枚もある八重の大輪、
花の形は円形で色が咲き始めは淡紅色、
花びらの内側の弁が白いために満開時は白色に変化する。
若芽は少し褐色を帯びた黄緑色、
樹形は杯状形で直立して生育よく、
幹の皮が所々縦に裂けるので鑑別し易い品種。
樹勢強く栽培しやすい。
山桜の一種「大嶋桜系」の変種だという。
国立遺伝研究所のHPの一葉桜
http://www.genetics.or.jp/sakura/htmls/ichou.html
http://www.genetics.or.jp/sakura/PCD/PCD3832/pages/14.html
平成15年、東京都台東区では一葉が21歳の時10ヶ月ほど住み
小説「たけくらべ」の舞台になった所の近くの通りを
(台東区浅草5-11~浅草6-35)
「一葉桜 小松橋通り」と名前を代えて、
八重桜のイチヨウ(一葉)を道の両脇に130本植えた。
http://www.city.taito.tokyo.jp/taito-co/tosizukuri/kouen/ichiyouzakura/ichiyouzakura.htm
先日、一葉や荷風も母上のために買い行ったという、
向島の長命寺の桜餅を浅草から言問橋を渡って買いに行った。
ソメイヨシノは散り始めていたが、八重桜は咲き始めていた。
言問橋のたもとの公園には八重桜の「一葉」が沢山咲いてた。
この他に里桜でわかりやすいのは
八重の大輪で花びらが深紅色の「関山」(カンザンともセキヤマ)
http://otakara-souko.net/sakura/archives/05-0330-211144.php
子房が葉化した一本に雌しべが2本あって、
花びらの中から象が顔を出しているような「普賢象(フゲンゾウ)
http://homepage1.nifty.com/morino/sakura/data/fugenzo/02fugenzo.html
花の色が淡緑黄色の「ウコン」
http://www2.jyose.pref.okayama.jp/cec/kdss/13_jumoku-u/1_ukonzakura/idx0313165025.htm
御衣黄
花弁の数は13個,ごく淡い緑色の花の色で花の終わりに近づくと紅色の線が入る。
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/gyoikou.html
以上
歌人永井陽子と桜 モーツァルトの電話帳
歌人 永井陽子と桜
海のむこうにさくらは咲くや
春の夜のフィガロよフィガロ
さびしいフィガロ
むかしむかしの木のこゑ風のこゑ
ひそとしづけし木管四重奏曲 永井陽子
4月8日(金)の日は朝早く、車で都心に出かけた。
お堀端は満開の桜で道路には花びらが舞っていた。
病院に入院中の知り合いの老人を迎えに行くためである。
病室から老人を車に乗せるため、初めて「車椅子」を押した。
病院の前の道には段差があり、神経を使う。
老人を乗せてから、車椅子を車のトランクに載せる時、
車椅子が以外と重く、しかも大きく、トランクにのせるのに苦労した。
こういう事は実際にやってみないとわからない事だ。
もう一度「福祉住環境コデネーター1級」の試験を受けるために
基礎から勉強し直そうかとも思った。
その老人の50歳の息子が老人の同意を得ずに勝手に印鑑証明を取って、
老人所有のアパートを売却しようとしているという、それを阻止する為に、
印鑑証明書が発行される前の朝一番に老人の住んでいる町の区役所に行き、
印鑑証明書の発行を停止するための手続きをする事になった。
区役所に残っている息子が提出した印鑑証明書発行の委任状の筆跡が
老人が書いたものでない事を証明して、息子が印鑑証明書を取りに来ても、
発行をして貰わないようにお願いしようというのである。
区役所の計らいで印鑑証明書の発行を阻止する事は出来そうだが、
今後の対策を取るために鮨屋で昼食を食べながら老人から話を聞いた。
老人はこれから息子を警察に訴えたいという。
無駄な事だと判っていたが老人の気持ちを考え、
午後は老人の住む町の警察署にも行った。
親子の対立で財産が絡んでいると複雑で
他人にはわからない事情もあり、
あまり、深入りすると最後はこっちが恨まれてしまう場合もある。
警察は相手にしてくれなかったが嫌な話だ。
老人を病院に送ってから、時間はあったが
真っ直ぐ、家に帰る気がしない、
皇居や都内の公園の桜を眺めて時間を潰した。
道路は金曜日の夕方で混んでいた。
丁度、飯田橋付近で外堀通りを新宿に向けて運転していた。
外堀の土手の桜並木は満開で
土手の桜並木の奥に時々中央線の橙色の電車が通過した。
カーラジオで夜の7時のニュースが終わると、音楽番組で、
この1月の演奏会で聞いた「アンサンブル・ゼフィロ」の
来日演奏会の録音放送になった。
曲目はモーツァルト作曲の「フイガロの結婚」からと
セレナード変ロ長調K.361(グラン・パルティータ)
グラン・パルティータは映画「アマデウス」の中で
サリエリがこの曲を聴き、モーツァルトの天才を感じる場面に使われた。
アンサンブル・ゼフィロはイタリアの演奏団体で古楽器で演奏する。
音の柔かさ、自由闊達な演奏、聞いていて楽しくて仕方がなかった。
演奏している人たちはその何倍も楽しそうに見える演奏会だった。
アンサンブル・ゼフィロについてのHP
http://www.allegromusic.co.jp/ENSEMBLEZEFIRO.htm
http://www.arkas.or.jp/event/zefiro-fry.html
アンサンブル・ゼフィロのグラン・パルティータの録画が
4月28日(木)午前10時からNHKBSで放送される。
http://www.nhk.or.jp/bsclassic/bscc/2005-04/bscc-2005-04-28.html
カーラジオから「フイガロの結婚」の序曲が聞こえてくると
もうだめ、車の中はたった一人の演奏会場になった。
音量を最大に上げ、どっぷりと音楽の底に沈んでゆくと、
軽快に花びらが風に舞うようなメロディの流れの中で
薄白くなったお堀の桜並木の花が
時々,対抗車のライトに照らされて白く浮かび上がった。
今日一日の出来事のすべてを忘れられるような美しさだった。
8時過ぎに家に着いたのでグラン・パルティータを
最後まで聞く事は出来なかったが
夕飯を食べる前の犬との散歩は近所の団地の桜並木を歩いた。
永井陽子の短歌のことを思い出した。
永井陽子は1951年昭和26年愛知県生まれ、
惜しい事に2年ほど前に亡くなられた。
10年ほど前、「モーツァルトの電話帳」という題名に引かれて
永井陽子の短歌集を買った。
永井陽子の「モーツァルトの電話帳」から
海のむこうにさくらは咲くや
春の夜のフィガロよフィガロ
さびしいフィガロ
ゆふさりのひかりのやうな電話帳
たづさへ来たりモーツァルトは
るるるる・・・・・・と呼べども
いづれかの国へ出かけてモーツァルトは不在
東洋のれんげあかりの夕暮れに
モーツァルトは疲れてゐたり
むかしむかしの木のこゑ風のこゑ
ひそとしづけし木管四重奏曲
以上は「モーツァルトの電話帳」から
洋服の裏側はどんな宇宙かと
脱ぎ捨てられた背広に触れる
警報機鳴るやもしれぬうつし世の
さくらのやみのにほふばかりを
あはれしづかな東洋の春
ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ
もうすぐ青空があの青空が落ちてくる
そんなまばゆき終焉よ来たれ
桜
桜の花の色について
桜花の色による分類方法
1
.白色の桜
①「太白」 タイハク 大輪一重の代表
日本で消滅、英国から里帰りした桜
②「白妙」 シロタエ 大輪八重
「駒繋」コマツナギ 親鸞上人が馬を繋いだ桜
白妙と駒繋は近い品種
2.淡紅色の桜 一番種類の多い色
①「兼六園熊谷」 ケンロクエンクマガイ 中輪一重
兼六園で生まれた桜
②「東錦」 アズマニシキ 大輪八重
東錦」と「江戸桜」は同じ種
3.紅色の桜
①「寒緋桜」カンヒザクラ 一番紅色が濃い桜
②「関山」 カンザン 大型八重
桜湯その他食用桜の原料になる
4.緑や黄色の桜
①「御衣黄」ギョイコウ 中輪の八重
花弁は緑の濃い緑黄色
開花後花弁中央に赤色の線が出る。
②「鬱金」 ウコン 中輪八重で淡黄色
名前の由来はカレーの原料のウコンから。
名前が「緑桜」という桜
③『緑ガク桜」 リョウガクザクラ 白色小輪一重
豆桜の変種 花弁は白く、ガクが緑色
5.紫色の桜 「紫桜」 花弁は5個 中輪一重 淡紅紫色
6.墨染の桜 花の名前に墨とつき、花色が墨色ではない。
墨染めの名前の由来
1. 若芽が茶色で暗い感じがするからといわれる。
東京足立区荒川堤の「五色桜」
戦前の荒川堤は桜の名所で
そこに五色の桜が植えられていた。
http://www.adachi.ne.jp/users/bnbku/gosiki.html
五色桜の種類
1、白が白妙
2、紅が関山
3、黄が鬱金
4、黒が墨染
5、紫が紫桜
①桜の花の色は咲いてから散るまで同じ色ではなく
染井吉野は咲き始めは淡紅色から白色になり
散る頃には花の付け根が紅色に染まります。
②同じ種類の桜でも、東北や北海道の桜は関東の桜よりも
花の色が濃いといわれている。
③海辺や平地の桜よりも山地の桜で咲く桜のほうが
花の色が濃いといわれている。
④同じ桜でも若木のほうが色が濃いという。
東京で咲いているエドヒガン桜は花の色が濃いのに
各地にあるエドヒガンザクラの古木は花の色が白い。
有名な岐阜・根尾谷の「薄墨桜」
種類は「江戸彼岸桜」白色の小輪一重
名前の由来
1.散り際の花が淡墨色に見えるという
2.伝説で継体天皇のお手植えの桜
この地で不遇な生活をしていた継体天皇が
都に帰るおりに詠まれた歌の中の「薄住」が
淡墨に転化したという。
前田利行、宇野千代が守った日本で2番目に古い桜
羽田澄子が1976年に記録映画を作った。
薄墨桜のアドレス
http://nishi525.cool.ne.jp/tabisaki/neotani.html
http://www.city.motosu.gifu.jp/neo_web/index.html
桜守
桜の花びらの大きさと数
第一 桜の花の大きさ
桜の花の大きさを表すのに
小輪、中輪、大輪、超大輪の4段階に分ける。
小輪 花経が2.5センチ以下
中輪 花経が2.5~3.5センチ
大輪 花経が3.5~6センチ
超大輪 花経が6センチを超える
一重で一番大きい桜は「太白」タイハク
八重で一番大きな桜は「白妙」シロタエ
第二 桜の花びらの数
一重の桜と八重の桜
山桜などの野生種は
花弁が5個、雄しべが30~40個、雌しべが1個
それが何らかの原因で雄しべや雌しべやガクが
花弁になり、花弁数が増える
一重咲きの桜 花弁数が5個 桜の6割は一重咲き
半八重咲きの桜 花弁数が7~10個 薄重大島ウスカサネオオシマ
八重咲きの桜 花弁数が11~60個 白妙 シロタエ
菊咲き桜 花弁数が100~380個 兼六園菊桜ケンロクエンキクザクラ
一重の桜に比べて、八重桜は咲き始めるのが遅く、
咲いている期間が長い傾向がある。
代表的な八重桜
「関山」カンザン 大型の淡紅八重で桜湯の材料になる
「一葉」イチヨウ 雌しべの根元が緑色をしている。
「松月」ショウゲツ 樹形が傘型で花が白羽二重のような桜
「普賢象」フゲンゾウ 葉化した雌しべが象の鼻のように見える
「大提灯」ダイチョウチン 枝先に提灯のように群れて咲く桜
「市原虎の尾」イチハラトラノオ 枝が横に伸び、開花すると虎の尾に見える
北海道、松前の浅利政俊さんは「八重桜は実を結ばない、又たとえ結んでも
発芽能力はごくわずか」という通説を疑い、昭和34年勤めていた松城小学校の
生徒たちと協力して、町中の「南殿」という八重桜の実を集めた。
八重桜「南殿」は一本の木で一億個の花をつけるが、実は2.3個しかならない、
町中の「南殿」から、507粒採取した。それが翌年10本発芽、そして、5年後に、
花が咲いた、南殿の2倍の花弁数を持つ大輪の新品種だった。
浅利氏はその桜に松前の伝説に基ずき、「綾錦」と名づけた。
浅利さんは約35年間で105種の新種の桜を作った。
新品種は国内はもとより、欧米、中国、韓国、パキスタンに渡った。