平安貴族の生まれ変わり、でぶひよ1960さんがまたまた面白い藤原詮子さまの記事を書かれてます。
で、私も考えてみました!
とはいえ私は国文科でも史学科でもなく、好きで本読んだだけ。映画やアニメ見てわあわあ言ってるレベルなので、お読み流しくださいね。
あ、でもご意見ご感想はありがたく承ります。
でぶひよさんの記事で知りましたが、詮子さまの入内、他の方より遅かったんですね。それでも唯一の男子を生んだのに立后できなかったって。源氏物語の悪役弘徽殿の女御もそうだけど、これは私でも納得いきません。
詮子さまご本人はもちろん兼家パッパも激怒で当然ですよ。円融帝からしたら立場の弱い寵姫を守りたかったんでしょうが。
だから一条帝即位で皇太后位についたと。国母なんだからそうでしょうよ。
と、思ってました。が!違うかったんや!
清しょうこ納言さんや権中納言さんが、とっても詳しい記事をあげておられてびっくりしました!リブログお願いしようかと迷ったのですが、私の戯言ブログごときに並べるのは申し訳ないし恥ずかしいので遠慮しました。
ご興味ある方、ぜひぜひこちらのブログご覧になってみてください。
大河ドラマでは(私は見れません)、詮子さまが定子さまに厳しく当たっていたとか。
まさか嫁いびり!?と言う意見も見られます。
でも私もでぶひよさんと同じくそういうのではないんちゃう?と思い、調べてみたら…と言っても私が調べられることはネットなので限られてますが。
威圧的な詮子さま描いてみました。あご上げ過ぎて鼻の穴丸見えでございますよ~。
定子さま入内の時、まだ28才だったんだ!
兼家パッパの正室の子女
1道隆(定子さまの父上。中の関白家当主。)953~995
2超子(冷泉帝女御。三条帝母。)954~982
3道兼(大河ドラマでは悪役。)961~995
4詮子(円融帝女御。一条帝母。皇太后。)962~1002
5道長(三郎?)966~1028
あら、上二人と第三子の間が結構あいてる。
ちなみに道綱は955年生まれ。道綱の母と恋愛してた頃なのかな?
詮子さま第四子だったんだ!道兼のさらに妹!道長の姉とは知ってましたが。
道隆さまとは9歳も離れてたのか。1000年前の9才差は大きかったでしょうね。
というのも私が考えた仮説。詮子さまにとって、
そもそも定子さま以前に、中の関白家が邪魔だった。
円融帝下では皇太子をもうけながら立后できなかった。道隆兄は自分家優先で、兼家家ファーストではない。もちろん詮子さまのことなど二の次三の次。
せっかく我が子が即位して国母になったのに。
だけど道長なら実家で長い間一緒に暮らした。弟なので詮子さまの言うこともよく聞く。さらにこの後、跡継ぎに着くバックアップをしてやれば、大恩を売れて将来も詮子さまの思うまま権力をふるい続けられる。(…はずだったのに、定子さまの翌年か翌々年に詮子さまも亡くなってるんですね。皮肉。)
以上の理由で私は、定子さまがというより中の関白家さえいなければ権力は我が物!と詮子さまは考えておられたんじゃないかなと思いました。天下の藤原の姫だし。
まあね。藤原家に限らず権力の座は、まず他家を排除して、次は身内で共食いすると。
大変だ…。
そしてそんな権力の鬼たちの犠牲になって、一条帝と定子さまは引き裂かれるのでした。(号泣!)
枕草子、初めて宮に参りたるころ、描いてみました。
なんで少納言ちゃんがメガネしてるかって?雰囲気、雰囲気。
自画像じゃないですよ!私しわしわのダルダルやし。
ご厚意に甘えて、ご紹介の記事リブログさせていただきます。
清しょうこ納言さん
でぶひよ1960さん
ありがとうございます!