先日の日曜日、ライブをしました。

自由にやらせてもらいました。

ライブをすると色んな人に出会えて

演奏できるありがたさや人生の慈しみ

みたいなものを感じます。


「マツコさんは、(ハウらないように)

  いい感じでマイクの距離を調整してくれる

 から、助かる」と


言われていたけど、今回はそんなことはせず、

ちゃんと大声ベースで事前に調整してもらった。


少しづつ、スッキリしてきた。

余計なことに心の体力をとられず

(しかもどうでもいい事で)、

気を遣わせず、お互いラク、みたいな

コミュニケーションに近づいているように思う。


前々回と前回の記事の続きで、

変わらなければいけない私の

闇深い幼少期を振り返る。

棚卸し。

新しい私のために必要な事だ。


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親を責めるつもりはない。

私は初めての子どもで、親だって初心者なのだ。


前記事で、ドリルの答えを見て

バレて怒られた話をしたけれど、


それは「ひっ算」だった。


まだ習ってなかった部分で、その言葉すら

なんのこっちゃわからなかった。


でも親は、ドリルを与えてやらせておけば

自動的に私が賢くなると思っている。


だから言えなかった。

「わからない」「習ってない」と


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遡ればもっと幼い頃から

「あれが欲しい」「これが食べたい」

と言えず、運良く手に入ればよかった。


そのうち、具体的な望みも

なくなってきた。

アウトプットできないのだから、

望みが叶えられる事はないからだ。


そのうち、何かをねだることを覚えた時も、

ものすごい決死の覚悟だった。

「〜しちゃだめ?」みたいな

いつダメが出ても傷つかないように尋ねた。


スーパーでバレンタイン用に

小さいチョコが並んでいた時、

手が届いたので、一個その場で食べてしまった。


「小さい子だから」ではなく、

小さい子だったけど罪の意識はあった。

包まれていた銀紙は手の中で圧縮したし、

気づかない母親を急かして、店を出ようとした。


問題は、食べてしまった事ではない。

食べたいと言えなかった事だ。


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「いい子」でいたかった。

「いい子」とは、悪いことをしない子で

親を煩わせない子で、わがままを言わない子だ。


私の中の「いい子」を保つため、

山ほど嘘をついた。


「いい子」は親が思ういい子と、

他人が思ういい子と、

私自身が思ういい子像がある。


親もまあまあ理解がなかったし、

他人も無責任に褒めてくるけど、

私は自分で自分を縛って

どんどん苦しくなっていく。


そのうちいろいろバレる度、

親がそれにも理解を示さないし

私も親のがっかりした顔はもう見たくないので、

やはり山ほどの嘘はやめられなかった。


ちゃんと叱られちゃんと抗弁して

ちゃんと諭されてちゃんと反省して

ちゃんと許されてちゃんと愛し合って


信じられる…。


どんな親子でもやっていることを

私達はやらなかった。


だから愛されていると思わなかった。

だから「白々しく触らないで」と


幼い頃すでに、思っていた。

親にべたべたと甘えた記憶はなく、

呼びかけられても外出が億劫で

気づいたら部屋でひとり本を読んでいた。


現実はどうでも、本の中は楽しかった。

幼稚園ではひとり友達ができたけど、

小学校では3年まで口を聞かなかった。

ついでにトイレも入らなかった(こわかった)



つらくなってきたので、今日はここまで。



ではまた