こんにちは!今週のブログは白井と佐々が担当します。今回も、前回同様有意義な議論ができましたので紹介していきます!

 

まず、二つの英字記事を白井が担当します。

 

一つ目の記事はアメリカの銃社会に関する記事でした。

アメリカ、テネシー州ナッシュビルの学校で、生徒三人、職員三人が殺害される銃乱射事件が起こりました。この悲惨な事件から一年がたち、地域の多くの学生が銃規制の改革を求めて活動しています。しかし、彼らがこの銃社会の改革のためにデモを起こし、積極的な活動をしても、銃規制の改革は大きな進展には至りません。彼らの活動に対して、テネシー州の議員たちは重要な銃規制の法案を可決せず、その他の議論を推し進めています。この記事では、議員たちが行動を起こさなくとも、若い活動家をはじめとする銃規制の改革に向けた行動の重要性を説いています。

 

この記事について、議論した3つの質問に対するゼミ生たちの意見を紹介していきます。

一つ目の質問は、銃規制が進まない理由はなんだと思うか、というものです。多くのゼミ生が、銃を所持することはアメリカの人々にとって自己防衛の手段であり、犯罪率の高いアメリカで身を守るためには、銃を所持することが一番有効だと考えているのではないかという意見を示しました。銃の市場が大きく、既に多くの人々が銃を所持していること、人々にとって銃を所持することが特別ではないことから、規制することが難しいのではないか、という意見も挙げられました。また、政治的に銃社会に働きかけている団体があること、市民の安全を守る立場である警察官による、黒人差別を含む暴力事件があったことから、一般市民が警察に対する不信感を抱き、自ら所持することを選ぶのではないかという意見もありました。

二つ目の質問は、もしアメリカに住むことになったら銃を買うか、というものでした。買うと答えたゼミ生からは、銃に対抗できるものは銃しかない、海外滞在時、実際に銃の危険性を体感して、自分の身を守るためには所持するべきだと思った、などの意見が挙げられました。反対に、買わないと答えたゼミ生からは、銃は人々に恐怖をもたらすものであるし、銃を扱うことができないと思う、人を簡単に殺してしまうかもしれない恐怖がある、などの意見が挙げられました。

三つ目の質問である、銃を持った人、危険な場面に遭遇したらどうするかというものについては、ほとんどが逃げる、または隠れるという銃を使用しない選択をすると答えていました。

 

二つ目の記事は、アメリカにおける、未成年のSNS利用に関する記事でした。

今年三月、アメリカ、フロリダ州の知事が十四歳未満のSNSの利用を禁止する州法案を成立させました。同法案は来年一月に施行されます。この法案では、十四歳未満のSNS利用禁止、また十四、十五歳の子供が利用する際には親の同意を求めるというものです。企業には十四歳未満のSNSアカウントの削除を要請し、この法律を守らなかった場合、多大な賠償責任が生じる場合があります。SNSの利用が活発化する中で、子どもが犯罪に巻き込まれる可能性があるなどの安全性に関する問題や、メンタルに悪影響を及ぼすなどの健康面での問題が指摘されています。このような懸念から子どもたちを守るため、今回の法案が成立しましたが、これは自由を奪うものだ、また、違憲だとする声も上がっています。

 

この記事について二つの質問が投げかけられました。

一つ目の質問は、この法律について賛成か反対か、というものでした。賛成側の意見では、SNS上でのいじめや、個人情報漏洩、犯罪に巻き込まれる可能性等の問題を回避することができる、などが挙げられました。また、十四歳未満の子どもたちはSNSを利用するにあたって適切な判断をすることが難しい、十四、十五歳の利用に関しては親の管理があればトラブルに巻き込まれにくいのではないか等の意見がありました。反対側の意見として、SNSはコミュニケーションの手段、または情報源になっていることから、これらの機会が失われてしまう、家族、学校での教育を適切に行えば、州がアカウントの制作禁止をするほどではない、などが挙げられました。二つ目の質問は、SNSの利用は何歳からが適切か、というものでした。ほとんどのゼミ生が、SNS上でのいじめが生じたり、親の設定したルールを破る可能性があるため、中学生以下の利用は適切ではないと答えました。また、この質問に関連して、どのような教育が必要かを議論したところ、学校でSNSのトラブルに関する映画を視聴する、また、ノンフィクションのドラマ、実際に起きたSNSに関する事件のニュースを視聴するなどの意見がありました。そして、SNS利用に関する危険性などを生徒達自らがまとめ、ビデオを制作するなどの、知識のアウトプット作業も重要だという意見がありました。

 

 

ここからは佐々が担当します。

 

授業の後半では、『これからの「正義」の話をしよう』第2章をふまえ、功利主義についての議論を行いました。イギリスの思想家ジェレミー・ベンサムによって確立されたこの立場は、「最大多数の最大幸福」を謳っており、社会全体の幸福の量が最大になることを理想としています。

 

私たちは、功利主義に基づいて物事に判断を下すことの是非について意見を交換しました。はじめは賛成派よりも反対派を支持する学生がやや多く見られました。

 

賛成側からは、幸福の量が測りやすく、合理的であるという意見があがりました。社会全体の幸福を最大化するという点では、正しいとされる意見もありました。また、多数決など日常的にも功利主義を採用していることから、必ずしも悪ではなく、ある程度の少数意見は切り捨てていく必要がある、という声もありました。さらには、自分に身の危険が生じる可能性がある状況では、「費用便益分析」が効果的である、という意見が出ました。「費用便益分析」とは、考え得る全てのコストと利益を貨幣という1つの価値に換算し、合理的なおかつ厳密に社会的選択を行う方法を指し、功利主義の論理が応用されているものです。

 

一方で、反対側の意見としては、幸福の量よりも個人の人権を重要視すべきだというものがありました。また、自分が少数派の立場になったときに切り捨てられてしまうことを考えて、マイノリティの意見を無視することは良くないのではないか、という声があがりました。やや類似した意見で、自分は不幸で他の大多数が幸福だった場合に、社会全体の幸福量だけを考えれば見捨てられてしまう、というものもありました。

 

しかし、話題が「幸福の町」に移ると、大多数の学生が反対の立場を示しました。「幸福の町」というのは、アーシュラ・K・ル・グィンの短篇小説の中に登場するオメラスを指します。ここは幸福と祝祭の町ですが、ある公共施設の鍵のかかった地下室に無実の女の子が1人で閉じ込められているのです。その子の健康状態は悪く悲惨な生活を送っていますが、解放すればその子の幸せと引き換えに、オメラスの町全体が衰退していきます。つまり、たった1人の女の子が町の全ての不幸を代わりに背負っていますが、そのおかげで町衆は幸せに暮らすことができます。

 

この話をふまえた上で功利主義についてもう一度考えたところ、反対意見として、みんなが同じ幸せや不幸を背負うべきであり、平等を正義とするならこの考え方は正しくないのではないか、というものがありました。また、1人の女の子の犠牲の上に成り立っている幸福は本当に幸福と言えるのか、人権を無視している、という意見もありました。さらには、社会全体の幸福の量と人権の比較を行うこと、そして女の子を閉じ込めておくこと自体が良くないという声もあがりました。

 

日本では、米軍基地や原子力発電所の設置場所をめぐる議論が盛んに行われています。これらは日本全体にとって必要なものですが、各社会が負担を平等に引き受けることはできません。功利主義的に費用便益分析などの計算を行うことは、みんなが納得できるものではないけれど、どうしようもない決断を下す際にはある意味で有効な方法なのかもしれません。しかしながら、苦痛や人の命など、計算できないもの、計算してはいけないものがあるところに、功利主義の難しさがあります。

 

功利主義は私たちの生活と密接に関わっており、功利主義について考えることは身近な問題を見直すきっかけにもなると気付くことができました。まだまだ深堀りできそうなテーマですね!

 

2回目の議論でしたが、既定の問いに囚われず、議論を進めていく中で生じた疑問をさらに話し合う姿が印象的でした。4月も残り少ないですが、体調に気を付けて、今後も有意義な時間にしていきましょう!