こんにちは!今週のブログは桒山、水野が担当します。

 

はじめに、英字記事二つを桒山が担当します。

 

一つ目の記事は、スポーツ界においてトランスジェンダー選手の女子スポーツ出場を禁止する政策についてです。

全米大学体育協会(NAIA)は全国241の大学で、トランスジェンダー選手が女子スポーツに参加することをほぼ禁止するという方針を発表した。トランスジェンダーの参加方針によると  NAIAが主催する男子スポーツには全てのアスリートが参加できるが、女子スポーツには出生時に生物学的性別が女性と割り当てられ、ホルモン療法を開始していない選手のみが参加を許可される。ホルモン療法を開始した学生については、練習やチーム活動などは参加できるが競技会には参加できない。この方針にトランスジェンダーを支持する団体からは、選手の可能性を制限する容認できないあからさまな差別であると批判されている。 

 

 この記事に関して二つの問いが投げかけられました。

 

 一つ目の問いは、このNAIAの方針についての賛成か反対かというものです。賛成意見としては、生物学上男性は女性よりも筋力、スピード、スタミナ等が勝るため競技を公正に行う為には区別するべきという意見が出ました。トランスジェンダーを支持する団体はこの方針を差別と捉えていましたが、私たちは「差別」ではなく「区別」であると考えました。解決策として、男性女性というカテゴリーではなく新たなカテゴリーを作るのはどうかという意見も出ました。また反対意見としては、スポーツは男性女性関係なく全ての人が参加できるべきであり、この方針はトランスジェンダーの権利を奪うものになるという意見が出ました。二つ目の問いは、トランスジェンダーの選手が女子スポーツに参加すると、女子選手にどのような影響があるかというものです。多くの学生が、心が女性でも身体は男性であるトランスジェンダーの方が筋力の差などにより優位に立ち、女性が活躍しにくい等の意見を挙げました。

 

二つ目の記事は、ある末期がん患者の女性が英国の死の幇助を禁止する法律の改正を求めていることについてです。

末期の腸癌を患っていたパオラさんはビデオメッセージを通じて、幇助死に関する法律を改正するよう人々に、こう呼びかけた。「現在、英国の法では人が死ぬための医療支援は受けられない。末期の病気による痛みや苦しみは耐え難いもの、尊厳がゆっくりと侵食され、自立が失われ、生きる価値のすべてが剥奪される。死の幇助は諦めることではない。この国には選択肢がないため自分で選んで死ぬためにはスイスのディグニタスへ行くしかない。」これに対し幇助死に反対する団体は、幇助氏の基準が末期患者だけでなく障害者、認知症、うつ病患者にまで拡大されること、弱い立場の人々が死への幇助を強要されることを懸念している。またカナダなど幇助死に関する法律が改正された国で適切な規制が難しいことが分かった。

 

一つ目の記事と同様に、二つの問いが投げかけられました。

 

一つ目の問いは、死の幇助について賛成か反対かというものです。この問いについてはほとんどの学生が賛成でした。参加意見としては、倫理的には死の幇助は正しいと言えないのもわかるけれども、末期患者が死ぬまで痛みに耐えなければならない事を考えると、最後の負担を軽減させる為にも認めるべき、最後のタイミングは自分で決められるべき、将来病院のベッドが満床になる危険性を軽減できる、家族の負担を軽減させるためにも認めるべき等の意見が出ました。一部反対意見としては少々利己的な選択であること、延命治療などの高額な治療費のことを考えると安楽死を選択することにハードルを感じなくなること等が挙げられた。二つ目の問いは、欧米や欧州などの地域でいくつかの国が死の幇助を認めている一方、日本では安楽死についての議論が少ないですが、これは日本と欧米・欧州のどのような文化や価値観の違いが影響しているかというものでした。欧米・欧州などは個人の決定を尊重しており、安楽死について現実的に考えている。また、キリスト教などの宗教も関係しているのではという意見も出ました。それに対し日本では、安楽死についてタブー化しており、死の幇助はもはや殺人と同じ意味という考え方があります。また日本の社会は長生きする事こそが最も良い事であると認識しているため、死の幇助は認められるべきでないと考える人が多いなどの意見が出ました。

 

『これからの「正義」の話をしよう』の第1章は水野が担当します。

この章は、道徳的ジレンマを考える章で、トロッコ問題とアフガニスタンのヤギ飼いについて話し合いました。

トロッコ問題では二つの場面が取り上げられました。一つ目は、自分はブレーキが利かない路面電車に乗っていて、そのまま進めば5人死ぬが、待避線に進路変更すれば1人死ぬという場面、二つ目は、暴走した路面電車が5人の作業員をはねそうになっており、自分と太った男が線路を見下ろす橋の上にいて、自分が太った男を突き落とせば路面電車が止まって5人を救えるという場面です。一つ目の場面では、進路変更する派の人は、犠牲者が少ない方が良いという考えでした。進路変更しない派の人は、自分が間接的にでも人を殺すことに罪悪感があるから、誰かが死んでしまう以上死ぬ人数は重要ではないからという意見でした。二つ目の場面では、太った男を突き落とすと答えた人はいませんでした。これは、犠牲者の数よりも、自分は傍観者でしかないのに故意に関わって無関係な男を直接的に殺めたくないという思いが強いことを反映しています。

ヤギ飼いの問題では、殺す派の人からは軍人として任務が最優先だという意見、殺さない派の人からは、軍人は死ぬ覚悟があるが一般市民のヤギ飼いにその覚悟はない、軍人としては殺すことが正しいかもしれないが一人の人間として正義にかなう選択は殺さないことだ、という意見がでました。

この章では、道徳的な判断基準は様々な要素や状況によって変わったり、人それぞれの正義があったりすることが分かりました。他の人の正義と自分の正義を比較することは非常に興味深かったです。

 

ゼミで初めて議論をしましたが、たくさん意見がでていい雰囲気で議論できました!この調子で次回も有意義な議論をしましょう!