今から2週間前、私はこうしてタイピングしていても右手が痛まなくなったと感じていた。

 

 しかし安堵もつかの間、やはり今も右手が痛む。

 

 以前のように痛くてじっとしていられない程のピークは過ぎているし、日常生活を娘達の支援を受けながら再開してはいるけれど、決して完治した訳ではないようだ。

 

 最近は日常で右手を普段通りに使う場面も多く、そのせいか、痛みが強くなっている。

 

 痛みが出る頻度も多くなっている。

 

 こんな状況で父を自宅で介護する等、到底できないと自分でも理解している。

 

 それでもやっぱり、父を入院継続という形をとり、人に委ねている今でも、これで良いという思いは無く、いつも心がモヤモヤしている。

 

 例えばコロナを理由に、病院が家族の面会を許可しなければ、父に会うことはできず、父の現状を目の当たりにすることもない。

 

 きっと、それなりに頑張ってくれているに違いないと、ただ信じて、父の存在すら忘れているかのように、私は日常を生きていくことができるだろう。

 

 でも、世界は常に変化する。

 

 地球の自転は止まらない。

 

 あれだけ世界を、社会を、人を分断したコロナでさえ、今はもうまるで過ぎ去った過去のように、3年間という括りで語られている。

 

 そうして病院も家族の面会を許可して、コロナによる分断が終わったかのように、窓口の扉を開けるのだ。

 

 

 

 

 その電話がかかってきたのは、仕事中の午後、車を運転している時だった。

 

 

 面会が出来るようになった。

 午後ならいつでも良く、予約も要らないと言う。

 

 レスパイト入院が終わり、続けて受け入れてくれた病院に入って、2週間が過ぎた頃、私は父に面会する事が出来た。

 

 父は窓際のベッドで、自宅にいた頃、就寝時に使用していたつなぎを着ていた。

 

 春の昼下がり、晴天の青い空が眩しい程に美しい日だった。

 

 父のベッドからは外の景色が見え、院長の配慮を感じて感謝の気持ちでいっぱいだった。

 

 点滴を受けたのか、ベッドサイドには点滴架台があり、父の顔は酷く浮腫んでいた。

 

 私との生活では、この時間にベッドにいること等あり得ない。

 

 ましてや夜間就寝用のつなぎでいること等皆無である。

 

 でも、それについて意見できる訳がない。

 

 入院とはそういうものだ。

 

 自宅で生活できなくなった人に必要な介護を提供したければ、今の制度上、介護保険を使って介護施設に入るしかない。

 

 制度に対して逆行しているのはこちらのほうなのだから。

 

 複雑な思いだった。

 

 

 面会しなければよかった?

 見なければよかった?

 

 忘れていられた?

 

 見ても見ぬふりをすればよかった?

 

 これが正解?

 これしか方法がない?

 

 信じて施設に入れる?

 信じられる?

 

 どこにある?

 どこなら任せられる?

 

 自問自答だった。

 

 いろんな思いが頭を巡っていた。

 

 ただ、このままじゃいけない、何とかするなら早くしなければ、その思いだけは強く、私はまた更に頭の中で、また何か新しい方法を考え始めていた。