年始、1月3日には自宅に戻る予定だった父。

 

 無情にも、私はショート利用延長を依頼して、年末から数えて連続17日間の利用予定に変更した。

 

 元々は3日に戻る予定だったので、3日までの内服薬しか準備しておらず、私は当初の予定最終日である3日の午後に、急遽延長とした日にち分の内服薬を施設に届けた。

 

 長期間のショート利用での父の変化も気になったものの、翌日からのデイサービス運営の事で頭がいっぱいだった。

 

 なので父に会う事もなく、薬を渡して退散である。

 

 延長した最終日まで同じところに居られたら良かったが、それは不可能であった為、父は長期利用後半で施設を移動しなければならなかった。

 

 正月3が日も過ぎた年始の平日、またまた私は無情にも、デイサービスが終了して辺りも暗くなってから、父を迎えに行き、もう一つの施設へ父を移動させたのである。

 

 車内で父に、家には帰れない、もう少しお泊り我慢して欲しいと話した。

 

 父にはどれくらい理解できたか謎である。

 

 しかし、運転中、まだ家には帰れないと私が話した時、何で?と父が即座に返してきたので、少し驚いた。

 

 父の中で、自宅と自宅でない場所の理解は出来ているのかも知れない。

 

 私と私以外の介護者の区別も出来ているのかも知れない。

 

 ただそれを上手く表現できないだけなのかも知れない。

 

 自宅ではない場所から車に乗ったら、次は自宅にというルーティンが、父の中には存在しているのかも知れないなと私は思った。

 

 だからこそ、あの、何で?という反応が出来たのではないだろうか。

 

 認知症の人は不思議である。

 

 どこまで認知できていて、どこからが認知できていないのか、それは誰にも分らない。

 

 父の場合は日によっての変動もあるくらいだ。

 

 しかしながら、脳組織のあらゆる部分が破壊されていても、様々な認知機能が低下していても、どんな人であったとしても、感情だけは綺麗に残っている。

 

 故に、言ってもわからないだろうとか、聞こえても理解できないだろうという思い込みでの介護は、信頼関係に傷を付けるというものだ。

 

 理解できようができまいが、何でも話すし、何でも説明する。

 

 それが私の介護スタイルである。

 

 認知症でも要介護者でも、そうでない人と同じように接する。

 

 必要なのは自分で出来ない部分の援助だけ。

 

 それが華桔梗スタイルなのである。

 

 さて、移動先で父を施設に委ねる時、

 

 出来るだけ感染しないよう、宜しくお願い致します、

 

 そう言って、後は只々祈るのみ。

 

 これで父に何かあった時、兄弟達は何ていうだろう…そんな想いもよぎりながら、私は父を預けて帰路についた。

 

 スタッフの主力メンバーが欠けたデイサービスはもう笑うしかない程の従業員不足。

 

 私も久々に一日中デイサービスの助っ人。

 

 他部門からもオール参加で危機を乗り切った。

 

 元気なのは利用者様達ばかりで、頑張ったスタッフはへとへとだったけど、スタッフのコロナ感染が、年末年始の長期休暇の出来事だった為に、利用者様へのクラスターとならなかった事が、不幸中の幸いだと私は一人安堵しました。