利用者様の生活に寄り添いながら、日々仕事をしていると、いつも感じる事がある。

 

 お医者さんって、本当に患者の疾患しか診てないんだなって…

 

 昔、西日本有数の総合病院と言われた病院で、病棟看護師をしている頃も、痛烈に感じていたっけ。

 

 病気を診るのが医者。

 診療の補助の傍ら、患者の生活を看るのが看護師。

 

 父の入院で何十年ぶりかにその病院にお世話になった時、時代の流れを感じ、もはや看護師ですら、電子カルテへの打ち込みが仕事になっていて、看護の本質とは何ぞや?って自問自答した事を思い出す。

 

 現在、在宅医療が普及し、訪問診療や往診も珍しくない世の中にはなったけど、それでも介護の現場では、力不足な支援者によって患者が被害に合っている事が多い。

 

 悲しい事は、選択を誤れば、患者は命を縮めてしまうという現実。

 

 例えば、訪問看護が入っていながら、患者家族への療養中の指導や助言、今後の予測や緊急時の対応の打合せ等、本来すべき担当部署が自分の役割を果たせていない事が多い。

 

 果たせていない事に気付いてもいないし、指摘すれば、指示されていないと言う。

 

 看護とは、看て護ると書くように、指示された事だけをして看護したとは言えないのではないか?

 

 その昔、看護科の鬼教官から、看護とは観察に始まり観察に終わると、厳しく叩き込まれた。

 

 患者や家族は医療や介護の専門職ではないのだから、一つ一つ0~100まで理解しているか、ちゃんと出来ているかチェックしてあげないと、後に何でそうしてしまったんだ?って事が起こるのだ。

 

 具体的な話で言うと、自宅での看取りを希望して訪問看護が入っていたのに、その訪問看護の看護師が十分な姿勢保持をしないで飲水介助をして噎せ込み、その方法を見ていた家族が同じように正しい姿勢保持をしないまま食事介助していて、喉に詰まらせ、救急車を呼び、搬送中に亡くなったというケース。

 

 華桔梗は入浴目的のデイサービス利用という形で関わっていたが、これから自宅で看取りを含めた余生を送るという事で、集まった担当者間での会議では、長々とくだらない話が多かった。

 

 もっと中身のしっかりした話が出来なかったのか、例え敵を作っても、あの場でもっとしゃしゃり出て、今話し合っておくべき事を進言するべきだったと、今も後悔が残る。

 

 私がそれをしていれば、あの方の最期はもっと違った形になっただろう。

 

 看護とは看て護るものだ。

 

 看ないと気付けないし、気付けば動かなければならない。

 

 動くべき人間が自分でない場合なら、動くべきだと進言しなければならない。

 

 それこそが、本当の意味で、患者を看て護るという事なのではないかと私は思う。

 

 私にはまだまだ力が足りない。

 

 もっともっと強く大きくならなければ、医療や介護を知らない患者さん達を十分には守っていけない。

 

 人は皆弱くて簡単に保身の為の嘘をつくし、自分の患者を専門外でも手放さない医者も多いしね。

 

 そんな世界で戦う私って、本当に馬鹿だなって思う反面、一緒に戦うって集まってくれるスタッフに感謝。

 

 その思いに報いる為にも、更なる飛躍を目指して、

 私、今日も頑張ります!