問題行動がなく、移乗時の協力も得られて、会話まで出来るようになった父。

 

 ところが、気になる事が一つ。

 

 それは振戦が増えたという事。

 

 振戦とは手足の小刻みな震えの事だ。

 

 原因はいろいろ様々。

 

 しかし父の場合、最も重要になってくるのは、癲癇による部分的な痙攣との判別。

 

 以前、父を担当して頂いた主治医からは、次もしまた大きな癲癇発作で、全身の痙攣が起きたら、恐らく持ちこたえられないだろうと言われている。

 

 仮に命を取り留めたとしても、恐らくは寝たきり状態、植物人間のようになるだろうと。

 

 癲癇の痙攣発作を目の当たりにしたことがある看護師が一体どれくらいいるだろうか。

 

 今でもはっきり覚えているあの衝撃的光景。

 

 恐ろしくて、もう二度と経験したくないと思ったものだ。

 

 痙攣後の回復までにも時間を要したし、その間の父の様子も目を背けたくなるような姿だった。

 

 あの痙攣発作を二度と起こさない為に、癲癇抑制の薬はしっかり内服させている。

 

 しかし、先の入院で処方の調整を行い、内服薬の内容が微妙に変わっている事は確かである。

 

 癲癇の薬に変化はなくても、薬というものはその組み合わせで微妙に効用に差が出るものである。

 

 退院直後から感じていた、なんか振戦増えたな~という感覚。

 

 この延長線上にもし癲癇の全身痙攣発作があるとしたら・・・

 

 今診て頂いている訪問診療の主治医にも振戦の事は相談した。

 

 部分的な痙攣と言えるのかどうか。

 

 父は振戦の間、意識がないわけではない。

 

 呼びかけに反応もする。

 

 だからと言って、部分的痙攣ではないと断定はできないと今の主治医は話してくれた。

 

 つまり、今の父の振戦が、単なる振戦か、部分的痙攣なのかの判別は、誰にも分らないという事だ。

 

 そして、このような場合、今後どうするかについては、本人家族の判断に任せられることになる。

 

 

 平成30年に父が倒れてから今日まで、様々な人に出会い、様々な経験をし、私はずっと周囲に支えられながら父との日常を、介護生活という時間を積み重ねてきた。

 

 そして今思う事は、例え介護が必要であっても、父に取って、何が一体幸せなのかという事。

 

 そして父の主介護者である私にとって、何が一番最善の策と言えるのかという事である。

 

 父にとっての幸せは、私という家族の元で暮らす事だろう。

 

 私にとっての幸せは、私を支えてくれる人が常に存在し、父との会話が成立し、父自身が介護提供者に拒絶されないという事だ。

 

 それは単に父の問題行動によるものだけではなく、介護量の負担具合にもよる。

 

 私自身、穏やかな父との生活の方がストレスは少なくて済む。

 

 それは介護スタッフとて同じ。

 

 でも傾眠が強すぎて父の協力動作が得られなくなれば、介護そのものが重労働になり、介護提供者にも嫌がられてしまうだろう。

 

 いつか迎える死の瞬間までどのような時を刻むのか。

 

 それを考えた時、穏やかな父が皆に受け入れられながら、時に笑い、時に喧嘩もしながらその日を迎える。

 

 その方が良いなと私は思いました。

 

 癲癇発作よ、どうか起こりませんように。