覚醒が良くなった父は、良くしゃべるようになった。

 

 時には私を和恵と呼べるようになり、突然親戚の名前が出るようにもなった。

 

 寒い時には、あ~寒っ!と発言し、その口調は明らかに以前の父である。

 

 言葉が完全に復活した訳ではないので、言いたい事のニュアンスは分かるけど、きちんと言葉になっていない事もある。

 

 でも、大切な事は父が自分の感情を言葉で表現しようとしているという事。

 

 以前の覚醒が悪い頃にはなかった事である。

 

 先日、覚醒が良くなることで問題もあるとお伝えしたが、今日はその内容で少し愚痴らせて頂こう。

 

 父の様に、重度の認知症で、身体的にも自立立位が困難であれば、日常生活における介護量は相当なものである。

 

 起床から就寝までの全ての日常生活に、常に介護者の手が必要である。

 

 もしも父が何の言葉も発せず、何をされても顔色一つ変えなければ、介護行為そのものは非常にやりやすいだろう。

 

 手技が下手でも文句を言わない、扱いが乱暴でも抵抗もしない。

 

 その状況は実技研修において用いられるデモ人形の様だ。

 

 しかし現実にはこのようなことはあり得ない。

 

 要介護者は人であるが故、感情もあれば抵抗もする。

 

 だから認知症介護は難しいと言われるのだ。

 

 その人らしくと簡単に言うけれど、毎日毎日重介護を強いられると、介護する方も疲れてしまう。

 

 身体的な疲れより精神的な疲れの方が重症。

 

 虐待とか、身体拘束とか、してはいけない事をしてはいけない事と理解していても、一時の感情で思わずしてしまう、それが人である。

 

 AIや近未来に登場するかも知れないアンドロイドとは違い、人には心がある。

 

 要介護者にも、介護者にも。

 

 心と心がぶつかり合うからこそ、そこには笑いもあり悲しみもある。

 

 立派な人は決して虐待もしなければ殺人も犯さない?

 

 そんなことはない。

 

 どんなに立派な人であっても、極限まで追い詰められれば、人は誰しも虐待だろうが殺人だろうが、罪を犯してしまうものである。

 

 当然私も例外ではない。

 

 父との心の交流が復活しつつあり、嬉しいと感じる出来事もあれば、思うように介護を受け入れてもらえず、口論になる事もある。

 

 父の感情が高ぶった時、父には抑制する理性が疾患の後遺症により脆弱になっている為、思わず私に手を上げることもある。

 

 私がそれをまともに受ける事はないけれど、そういう時は頗る悲しくなるものだ。

 

 介護保険は、そういう家族介護の限界を理解して、社会的に支援する事を目的とした制度である。

 

 だからこそ、止むを得ない場合以外は受け入れ拒否をしてはならないとその法律で謳っているのだ。

 

 介護施設において、虐待を行ってしまうスタッフが悪いのではなく、そこまで追い詰めてしまった職場環境が悪いと私は考える。

 

 人は弱い生き物である。

 

 弱いからこそ支え合って生きていくのだ。

 

 スタッフの心的ストレスに目を配り、真に虐待のない介護の世界。

 

 私はそれを確立させたいと思っている。

 

 華桔梗はその第一歩に過ぎない。

 

 今後の成長に益々のご支援を宜しくお願い致します。