延命って何だろう。

 

 その字の通り、命を延ばす事と辞書には書いてある。

 

 延命治療や延命措置というのは、病で手の施しようがない人に、人工呼吸器をつけたり、輸血したりする事らしい。

 

 私が胃瘻について、思い悩んだ経緯を整理してみると、昔、ある医療従事者が、自分で食べられなくなっても、胃瘻増設してまで生かしておきたいなんてね、と話しているのを聞いた経験がある事が一番の要因と思われる。

 

 また、父の様に何一つ自分で日常生活動作が出来ない人が、周囲に介護という迷惑をかけながら、胃瘻をしてまで生きながらえるという事に、申し訳なさも感じていたからである。

 

 でも最近、私、気付いたことがあるんです。

 

 前々から人は一人では生きていけないとはわかっていたけど、家族の重要性、その奥深さ、そういうものを改めて感じるようになった。

 

 歳を取ったからかな?(笑)

 

 一人の人の命は、その人だけのものではあるけど、その人が家族を持てば、その人の命は家族の人のものでもあって、例え何もできない人でも、その家族にとってはかけがえのない大切な命となる。

 

 死に逝く人は、旅立ってしまえば苦しくなくなるけど、残された家族は、その悲しみに耐えなければならない。

 

 だから、命に限りがある人でも、その人の命は、家族のものでもあって、家族の為に生きながらえる義務があるんだと、私は思うのです。

 

 家族も家族で、闘病に苦しむ姿を看ていると、離れたくないという気持ちより、楽にさせてあげたいという気持ちが勝って、もういいよって言えるようになるんです。

 

 私の父は、今、食べられなくなって、胃瘻という選択をしたけど、父の場合は、消化機能がまだ正常で、嚥下できないという状態に一時的に陥っているだけだと、私は認識しています。

 

 だから、口から入らなくなった薬や水分、栄養を、胃瘻を使って補いながら、失った認知機能の回復に挑んでやろうと、私は思っているのです。

 

 だって、ほんの少し前まで、父は空腹時にお腹がぐ~ってなっていたし、調子が良い時は箸で食事を口まで運べていたもの。

 

 そして何より、私が父に胃瘻という決断をしたのは、父が笑った瞬間を見て、生きていると感じたからでもあるのです。

 

 父の様に、認知機能の低下によって、飲み込みが出来ない状態になっているだけの人に、胃瘻という選択をしないのは、救える命を救わないのと同じだと私は思います。

 

 家族にもいろんな家族の形がって、正解は一つではなく十人十色だけれど、例え、医療従事者にとって、無駄な延命治療だとしても、家族にとってはそれが、別れの時を受け入れる為の価値ある時間になるんだと思います。

 

 人の疾患だけを診る医師ではなく、人を人して診てくれる、家族の想いも大切にしてくれる、そういう医師が沢山増えればいいなと思うのです。

 

 父の胃瘻増設、無事に出来ますように!