慎重な処方調整が無事に終わり、自宅に戻ってきた父は、入院前とは格段に覚醒状態が良くなっていた。

 

 でもその覚醒状態は、在宅生活の中で更に良くなり、日増しに父は言葉を復活させていった。

 

 勿論、認知症である事には変わりがなく、復活された言葉も適切でない事も多々あるのだが、時に的を得た発言も出来るようになっているから驚きである。

 

 先日は、朝食後に、テーブルの前で父を待たせながら、私が食器の片づけをしていると、「歯磨きに行かないかんのやろ?」と、私に移動介助を催促出来たし、デイサービスで騒音を出す利用者がいると、「うるさいなあ」と誰もが心に思っていた事を言葉にして、周囲を失笑させた。

 

 父のこの覚醒状態は、勿論処方調整による賜物であることには変わりがないが、入院中の退院目前の状態と、自宅生活での今の状態で、全く同じという訳ではない。

 

 自宅での生活では、より密接な介護提供が得られる為、覚醒状態もさらに良くなる傾向にある。

 

 退院直前のカンファレンスでは、父は時折声を出すと聞いていたが、自宅生活が日一日と継続されるに連れ、声を出す回数も増えてきていると感じる。

 

 人が声を発したり、喜怒哀楽を言葉で表現したりすることは、極自然な事であるけれど、認知症である父の場合、その加減が理解できず、時に声が大きくなることは否めない。

 

 しかし注目すべきは、父の言葉に込められた意味であったり、言葉にならない声であった場合の意図するものであったりするのではないかと私は思う。

 

 以前、受け入れ拒否を受けた頃の父には、不快な事や不満な事があった時、攻撃性を感じる発言があった。

 

 感情のコントロールが出来なくなっている重度の認知症患者に対して、不快な事、不満な事を強いた場合、それは攻撃性を持って反撃され、暴言や暴力といった問題行動となる。

 

 それが以前の父であった。

 

 そんな場合においても、本人への理解を求めるべく、認知してもらう為の適切な支援が提供できておれば、問題行動も何とか回避できるのだが、それには高い技術が必要で、誰にでも出来得る事とは言い難い。

 

 なので、入院による慎重な処方調整が行われたのであるが、今の父は、やはり声が良く出る。

 

 ひたすら待たされる時の、恨めしそうなため息や、動けない自分への苛立ちによる発生、痛みを伴う時の悲鳴じみた声等がそれである。

 

 大きな声が出る事は、周囲に迷惑を掛けている事になるのだが、これ以上父のこの発声を抑制すると、誤嚥を再発し、最悪の場合は肺炎を起こして死に至る。

 

 だからこそ、あの手この手で考慮して、日々、父の調整に神経を使っている毎日なのである。

 

 ただ声が出来るからと言って、出ないようにしてしまう事は、非人道的である。

 

 発言の内容や感情を推測しながら、愛を持って介護する、それが認知症介護には必要不可欠であると、私は思います。