父が薬すら飲めなくなった時、私の脳裏に浮かぶものはM(マーゲン)チューブだった。

 

 Mチューブとは、経鼻管栄養時に使用する管の事で、鼻から挿入し、胃にまで届かせて固定しているものである。

 

 固定といっても鼻先と頬の辺りにテープで固定するだけであるから、抜こうと思えば簡単に抜けてしまう。

 

 しかし、父が全く食事をしない時、どうやって薬を飲ませようと思考すれば、看護師経験上即座に浮かんでしまうのだ。

 

 こんな時経鼻管があれば、白湯で溶いた内服薬を注射器で簡単に胃まで届けられるのに。

 

 舌を通過しないから苦みを感じる事もないし、一石二鳥なんだけどな。

 

 けど、この人(父)、絶対速攻抜いちゃうよね。

 

 そして似たようなもので本人抜去できないものとなれば、胃瘻でございます。

 

 以前私は胃瘻はしないと決めていた。

 

 そう、孫の顔もわからない、私の名前も出てこないのに、食べられないからと言って胃瘻なんてと、私は考えていた。

 

 けど・・・

 

 実際に飲み込みが出来なくなった父を見て、私の葛藤は更に大きく深くなってしまった。

 

 父は飲み込み出来ないというのに、その時手でつまんだお肉を口に運び、咀嚼していた。

 

 咀嚼しても咀嚼しても、一向に飲み込めず、結局は口に含んだまま溜め込み、しゃべった時に口からこぼしてしまう為、例え口に含んだとしても、体内に取り込むことは出来ないというのに。

 

 90分間、あの手この手で試行錯誤しても、結局何一つ食べることが出来ず、薬も飲めず、諦めて父の歯磨きをしていた時の事、父のお腹かぐ―と鳴った。

 

 その瞬間、私は急に悲しくなって、涙が止まらなかった。

 

 父は食べたいと思っているのだ。

 

 お腹がすいている、食べたいのに飲み込めない、何とかしてくれと、自ら伝えることが出来ないだけ。

 

 悲しかった。

 

 悲しい程に哀れだった。

 

 あぁ、こうして人は胃瘻という選択肢を選んでいくのだな、そう感じた。

 

 それでもまだ、素直に即座に胃瘻造設という訳にはいかなかった。

 

 以前にも前述したように、父が胃瘻造設すれば、誤嚥性肺炎のリスクは減り、内服薬の体内取り込みも確実になる。

 

 つまり父にとって延命になる訳だ。

 

 何一つ自分では出来なくて、日常生活の全てに人の手を借りなければならない父が、胃瘻造設して延命して良いのか?

 

 その日々の重介護をいったい誰が担うのか?

 

 許されるのか?

 

 命は誰のもの?

 

 私の中で様々な思いが駆け巡り、私は悩みの渦中に身を沈めた。

 

 入院先の連携室相談員さん、一緒に泣いてくれてありがとう。

 

 貴方ならどうしますか?その問いに即座に胃瘻造設と答えてくれた。

 

 自分のエゴかも知れないけれどと。

 

 一緒に居たい、離れたくないから胃瘻造設してでも延命する、それが家族の気持ちだろう。

 

 だけど私は複雑です。

 

 父の介護は毎日本当に大変で、週末は必ずショート利用。

 

 そんな父を延命させて良いのでしょうか?

 

 だけど命は誰のもの?

 

 命の終わりを決めるのは誰?

 

 父のようなケース、貴方ならどうしますか?