先日再び病院での病状報告会議があり、入院7週間経過後の父の様子を聞くことが出来た。

 

 体調は問題なく、熱も無し。食事も全量摂取で排便も良好。夜間も良眠との事であった。興奮状態も落ち着き、今回の入院当初からは見違えるように穏やかになっていると聞いて、早く自分の目で確かめたいとの思いだった。

 

 現在でも意味なく声を機械的に発する時が数分程度見られることもあるそうだが、主治医からは、これ以上処方を強めると、食事が上手くできなくなる可能性があると宣告された。

 

 人が命を繋いでいく為には、食事する事は必要不可欠で、上手く食事できなくなると、つまり、上手く咀嚼できない、上手く飲み込みが出来ない等であるが、そうなると、どうするか。直接胃に食事を送り込む、所謂胃ろうという選択になる。

 

 主治医からは、今後の経過として、加齢に伴うものや、認知機能の低下によって、嚥下機能の低下は免れず、その時どうするかも考えておくほうが良いとの話だった。

 

 考えるまでもない。

 胃ろうはしない。

 

 父にもっと認知機能が維持されていて、孫の顔がわかり、私の存在がわかるなら、胃ろうを行う価値もあると思うが、父は、入院前でさえ、孫の顔は分からず、私の存在ですら誤って認識している。自分で出来る事は何一つなく、生きる為に必要な食事排泄睡眠でさえ、全面的な介助が必要である。そのような父が食べられなくなったからと言って、胃ろうをすれば、どうなるのか。今よりさらに高度な介護や看護の提供が必要になり、一体それは誰の為のサービス提供かという事になる。

 

 誤解のないように、声を大にして言っておくが、胃ろうが全て悪い訳ではない。世の中には不幸にして、その方法でしか栄養摂取できなくなった人もいる。そのような人が胃ろうという選択をする事はむしろ必要な事で、それにより救われる命も少なくないだろう。

 

 胃ろうをするかしないかは、常にケースバイケースであり、都度都度考えなければならない事である。

 

 とは言え、胃ろうはしないと宣言するまでに、多少の躊躇はあった。

 

 人が生きるとは何だろう。

 

 命の終わりを決めるのは誰?

 

 その命は誰のものか?

 

 父が父らしく生きて、父らしく死んでいく事を考えた時、やはり人らしく食べて、食べられなくなるなら、食べられるものを食べられるだけ食べて、時に誤嚥して、そして肺炎になり、体力を奪われ死んでいくのではないだろうか。

 

 無論そうなる前に、てんかん発作が起こって、嚥下機能を失うかも知れないし、突発的に癌にでもなって急に旅立つかもしれない。

 

 この先何があるかはまさしく神のみぞ知るである。

 

 それにしても、父にとっての命の選択をしなければならない時、胃ろうはしない、点滴はしないと決断した私が、父の命の終わりを決めた事になるのだろうか、とも考えてしまう。

 

 施設に入所させて、人に任せっきりにはしないけれど、最期を見届けるその責任は重大で、少々荷が重い気もする今日この頃である。