それはまだ父の認知機能が今ほど低下していない頃の話である。

 

 一本足となって、日常生活動作の全てに介護が必要となっていた父であるが、食べるための必須アイテム、自歯や入れ歯の不具合で、何度か歯医者に通わなければならなかった。

 

 依然も少し触れたが、父は食後によく爪楊枝を銜えていた。歯と歯の間に詰まった残渣物を爪楊枝を使ってかき出している姿もよく見かけたものだ。恐らくはそれが父なりの食後のルーティンであり、歯磨き行為の代替でもあったのかも知れない。

 

 とにかく、まめに歯を磨く父ではなかった。

 

 だからこそ、口腔内の細菌が脳の血管を溶かし、脳出血を起こしたのだろうと思われるが、それにしても一本足で、リクライニング式車椅子で、重度の認知症である父を、病院とは言えどこかに連れ出す事は、並大抵のことではない。

 

 排泄の事や食事や内服薬のタイミングも考慮しなければならないし、第一、移動するのにも簡単に乗車できる訳でもない。父を同乗させるための車はあるが、移動には天気も考えなければならないのである。車椅子での乗車、降車を考えれば、駐車場の広さや配置まで考えなければならない。

 

 そんな苦労をしてでも、父の毎日の食事には欠かせない歯の治療の為に、私は数回、知人の歯医者に通った。

 

 そしてそこで、信じられない経験をしたのだ。

 

 知人の歯医者だけに、父の事を考慮して、出来るだけ待ち時間のないように配慮はしてくれたが、当然他の患者も待合室には居る訳で。

 

 私の信じられない経験は、この待合室で起こったのだ。

 

 その男女は、夫婦か恋人かわからないが、年齢は30代くらいに感じた。今では誰でも当たり前にカメラ付携帯電話を持っている。既にスマホの方が主流であろう。そしてその男女も当然のようにスマホを片手に病院待合室へ入ってきた。

 

 どちらが患者でどちらが付き添いかは知らないが、スマホをかざしてその待合室で写真を撮ったのは男性の方だった。

 

 写した画像を女性に見せて話していた。

 

 私が気になったのはその前後の男性の視線とカメラの方向。

 

 察するに、男性は一本足の父を見て、反応し、カメラをかざしているように見えた。私がその瞬間反応したことで、男性は自分のした行為を誤魔化すように女性と会話をしていた。

 

 私は、即座に立ち上がり、

 

 今、何を撮影したのですか?画像確認させてもらっていいですか?

 

 そう言いたかった。

 

 しかし、そこが知人の歯医者であったため、そうすることを慎んだのである。

 

 信じられなかった。

 

 今どき、こんな行為をする人間が本当に居るんだと、半ば呆れたのだ。

 

 世間の目はやはりこうなのか?

 

 特異なものは好奇の目で見られる。

 

 こんな世の中だから、不自由な身体になった人が世に出かけることを控えてしまうのだ。

 

 でも信じて欲しい。そんな人間ばかりではないという事を。

 

 受診後に一人で父を乗車させる時、通行の邪魔をしていても、温かくそれを見守り、待っていて来る人もいたのだから。