休暇と言ってしまえば、少し意味合いが違ってくるかも知れない。

 

 しかし、私にはまるで休暇そのものだった。

 

 言っておくが、この状況は私が行なっている介護事業がストップした訳ではない。家業も家事も普段通りに継続している。ただ唯一消失したのは、毎日行っていた父の介護。

 

 そう、ただそれだけの事である。それなのに、私はこの期間をパラダイスと呼んでいる。

 

 それ程までに父の介護が無くなった日々は、とてつもない開放感だったのだ。

 

 何故なら、父がてんかん発作によって入院している期間、私は、えっ?何しよう?こんなに時間がある!といった具合。普段はほったらかしの二女に髪乾かしてあげようか?とか、何か作ろっかな~とか言ったりしている自分がいる。

 

 何なのだ?この解放感。

 

 平成306月に父が脳出血を起こし、入院治療リハビリを行って退院したのが平成311月。それからという半年強の間、毎日デイサービスを利用し、毎週末ショートステイを利用して自分を解放してきた。

 

 父の退院から共に暮らし、初めてショートステイに父を預ける時は、大丈夫だろうかとか、ちゃんとお世話してもらえているだろうかと、気を揉んだものである。

 

 自宅での生活で初めててんかん発作が起こった時も、新たな課題だ!しっかり看ていかねば!と俄然闘志も抱いていた。

 

 それなのに、私は父がいない日々に猛然と開放感を感じていたのだ。誤解のないように言っておくが、私は父との生活を苦難とは微塵も思っていなかった。重度の認知症で、会話しても話がかみ合わない事ばかりであったが、時折見せる父らしい言葉じりや笑い方、元気だった頃によく聞かされた説教じみた話し方など、心温まる瞬間があったからである。

 

 それは共に暮らした者にしかわかるまい。

 

 かみ合わない会話では、時に笑わせることも多々あり、周囲の皆で笑う事が多かった。ありがたいことに、それは日々利用するデイサービスのスタッフのみではなく、他の利用者の方々も優しく温かく父を受け入れて頂き、皆で許し合っている感があった。

 

 思えば周囲がそうであったからこそ、私は日々耐えられていたと思うし、父の介護を苦に思ったことは本当になかったのだ。

 

 性格だろうか。そこにやらねばならぬ事あれば、ただひたすらにそれをやる。

 

 朝と夜、毎日同じ工程の繰り返し。父の介護をやっていた私は、それでも知らぬ間に疲れていたのだろうか。やらなければならない事が、ある日突然無くなって、暇になる。そんな表現がぴったりだ。

 

 この時の解放感は入院先が回復期病棟だったからというのも大いにあるだろう。だって安心して任せられるもの。

 

 毎日がスキップしたくなる気分だった。

 

 この現象からして、他人に委ねる時間が如何に必要かという事である。苦難と思っていなくても、あの開放感が私の本音。やっぱり介護って本当に大変なのだ。

 

 昔の人は偉大だわ。今は介護保険があって本当に良かった!そう痛感する今日この頃であった。