先日、主人の知人宅にお邪魔する機会がありました。
そのご家族には、5年生になる男の子がいました。
海の近くに育ち、それは大変のびのびと、健やかに、育っている男の子でした。
その子は、私が花にときどき英語で話しかけていることに気が付き、
「それ、アメリカ語?」と尋ねてきました。
興味があるのかな、と思い、
「ありがとう、はサンキューと言うのよ。知ってる?」 というと、
恥ずかしい!と言わんばかりに、頬を赤らめて、苦笑いしながら逃げてしまいました。
あぁ、そうだった。と思いだしました。
子供の頃、英語をかっこうよく話すことは、日本では「恥ずかしい」ことでした。
なぜだか、帰国子女の子も、そうでない子も、同じようにそう思っていました。
それがなぜなのか、確かな答えはわかりませんが、
統一民族で、「皆が同じ」が当たり前の日本では、
皆と違うことをすることは何か恥ずかしいこと、というような感情が浸透しているのかもしれません。
でも本来英語の発音は、英語の発音でする。それは日本語の発音とは違う。当たり前の事です。
それを当り前のこととして受け入れられる幼児期から、皆が英語に親しんでいれば
「英語話すなんて恥ずかしい」と思うような感情は、軽減されるように思います。
逃げてしまったその子の部屋にはアルファベットのポスターが貼ってありました。
アルファベットの上にカタカナでフリガナがふってありました。
Z→ゼット
R→アール
W→ダブル
5年生になって突然、日本語で、それまで聞いたこともなかった英語を
無理やり暗記しなければならなくなった子供たち。
それで本当に英語を学ぶことが楽しいと思うでしょうか?
これが本当に正しい英語教育のスタートでしょうか?
カタカナなどふらず、幼いころから歌で親しんでいればアルファベットなど簡単に覚えられます。
花は2歳になったばかりですが、アルファベットの歌は発音も正しく最後まで歌えます。
そこには苦労や努力は存在しません。
英語教育を2年早めたことにどれだけの意味があるのか。
本来英語教育とはどうあるべきなのか。
なぜ英語教育が必要なのか。
日本は世界のなかでどうありたいのか。
自分は、世界の中でどうありたいのか、子供たちにどうあって欲しいのか。
もっともっと、大人たちが議論を尽くさなければなりません。