数年前に発足した「日本赤ちゃん学会」について書かれたある書籍を読みました。


そこで、また取り上げられていたのは、


「日本語が正しく習得される前のこどもに、英語を教えるのは『危険だ』」


という議論でした。



これについて、多少熱くなって恐縮ですが、私見を述べさせていただきます。



危険であることの理由として、2つのことが取り上げられていました。



1つは、


「3歳まで日本語で育った子が、


突然、英語だけが使われる幼稚園に転入した。


しかし、突然の言語の変化に混乱を来たし、


それ以来言葉の発達や社会性が損なわれてしまった」



2つめは、


②「第二言語は第一言語をもとに習得される。


だから第一言語が正しく習得される前に、第二言語を学習するのは意味がない」




どちらも事実で、どちらもその通りだと思います。



しかし問題は、だからと言って


 <日本語を正しく習得する前の乳幼児に英語教育をするのは危険だ> 


と言うのは、あたかも


 <1+1=-4>というくらい、めちゃくちゃで、理論的にすっとんでいます。



①について言えば、そんなに突然環境が変われば、


こどもでなくても大人だって精神的に参ってしまうでしょう。



②について言えば、それでは多言語環境で育った子供たちはいったい


どうなると言うのでしょうか?




議論すべきは、こうした事実があることをどうしたら回避できるのか、ということです。

回避して、どうしたら、早期から、正しいあるべき第二言語教育が可能になるのか、


それを議論しなければならないのです。



例えば、中学生、高校生になって、クラスに外国からの友人が入学してきた、


あるいは、機会に恵まれて海外に留学することになった。


こうした時に、大きなショックを受けないために、


こどもたちに、日ごろからどういう環境を与えるべきか、


それを考えるのが大人の仕事なのではないでしょうか。



こどもたちに国際人としての自覚を培うために、幼少期の教育はどうあるべきか。


それを考えるのが大人の仕事ではないでしょうか。


島国で、しかも単一民族、単一言語社会である日本には、


これこそが最も難しく、しかし最も重要な教育的議論です。




「だから、できない」と言っていては、何一つ変わりません。


今求められているのは、「だったら、どうしたらできるのか」vo

考えることです。



日本の国際競争力の相対的低下は、もはや見過ごすことはできません。


何より恐ろしいのは、私たち日本人がその事実すら正しく認識できていないことです。


なぜ気がつかないのか。


それは英語というコミュニケーションツールを持たないからです。


英語が「普通に」使えれば、どの国際会議を見ても、どの海外のメディアを見ても、


政治的に、経済的に日本の地位がどれだけのものか、簡単に知ることができます。



私たちは今こそ、真剣に日本の将来について、日本の国力について考え、


そうした「国力」という視点から、英語教育を根本的に見直す必要があるのです。


「日本語を守りたいから英語教育は二の次」、などと気楽な議論をしている場合ではないのです。



日本語も、そして英語も、どちらも使えるようにならなければならないのです。


「どちらか」という議論ではなく、どちらも」という議論なのです。


そして、それを当り前に日本中に流布するために、幼児教育はどうあるべきか、


それを議論しなければならないのです。



ハナハウスの哲学としても紹介していますが、


何も英語のネイティブになる必要はないのです。



単に、第二言語として、必要最低限、英語を聞く能力、話す能力があれば良いのです。


それを自信を持ってできるようになれば良いのです。


たったそれだけのことができないだけで、私たち日本人は今までどれだけの不利を被ってきたことでしょう。



これ以上、古い概念にとらわれた学者、政治家の言うことを聞く理由はありません。