仕事。



今回の地震で、色々思うところがありました。

私の仕事は、全く人間の命に関わりのない仕事です。
もしかすると、ものすごく間接的に(「風が吹けば桶屋が儲かる」くらいの)なら、誰かを救うことがあるかもしれないけど、基本的には人の生死に関わらないもの。それが悪いとか引け目を感じるとかいう訳ではありませんが、

「あ、これが俗に「象牙の塔」と揶揄される所以か」

と妙に客観的に納得したりしました。


連日流れる救助報道。
自衛隊、消防隊、警察、ハイパーレスキュー隊、医療関係者、電力会社の人々、市町村職員。
色んな人の手によって、命が助かっている。

そんな中、否応なく自分の仕事の「意義」を考えさせられました。

言葉や文学の研究。
その成果を論文や原稿にまとめること。
その内容を教壇で教えること。


「何の意味があるの?」
「何の役に立つの?」


この質問は、文学研究学界では、ある意味タブーとされています。
問うてはいけない。なぜか?

明確な答えを、おそらく誰ひとりとして持ち合わせていないから。


「何の役に立つの?」


と問えば、しばしば苛立ちの混じった調子で、

「直接何かの役に立たないといけないのか?実学だけが学問ではない」

と逆質問される。
裏を返せば、質問に質問返ししなければいけないほど、答えはあやふやなのだ。


あえて言うなら、「より良く豊かに生きるため」のもの。
でもそれは、「ただ生きるため」には、1%も役に立たない。


そのことを、重々心に刻んでおかなくては。

早いもので年度末。

環境の変化への準備が、怒濤のように押し寄せています。



*   *   *   *   *   *   



来年度から、任期付きではありますが、一応専任で助教のポストに就くことができました。


より専門に近い授業を受け持つことができるのは嬉しいし、大学への帰属意識を持ちつつ仕事をすることになるので、気の引き締まる思いがします。



でも、こうやって外側からハイスピードで固まっていくと、ふいに不安になることがあります。

私自身の内側は、ほとんど何も変わっていないのに、と。


人としての器、仕事のスキル、どれをとっても、10年前と何か変わったのだろうか?

研究能力に関していえば、大学院修了時に比べれば、むしろ格段に低下していると思います。



それもそのはず、毎日研究室で何時間も調べ物をしたり論文を書いたりしていた院生時代と打って変わって、今の研究時間の少なさといったら。

「仕事と仕事の合間にやる」という程度しかできていない。。。

万葉集の基本、古代語の基本、昔なら当たり前に知っていた知識でさえ、「あれ?どうやったっけ?」と分からなくなることがあったり。。



肩書きが増えれば増えるほど、年齢が上がれば上がるほど、その大きさと実際の能力とのギャップに、押しつぶされそうになることもしばしば。



その「ギャップ」が開ききってしまう前に、少しでも差を無くすよう努力しないといけない。

もらった仕事は、本当にかけがえのないもの。きちんと丁寧にこなしたい。

そして、研究者として前進するために、業績を重ねていかねば。



そうすることできっと、大きく柔軟で芯のぶれない人になれるはず。


どういうわけか知らないけれど、この時期になるといつもふと思うことがあります。

それは、



「人生は、自分だけのものじゃない」



ということ。


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きちんと成人して仕事をして。

ここまではある程度、自分の好きなこと・やりたいこと(行きたい大学・やりたい仕事など)を優先して、比較的自分の好き勝手にできるところだと思います。


けれど、結婚して子供を産んで・・・・という、次のワンステップは、「自分がしたいからする・したくないからしない」というだけで決められるものではないような気がします。



私はずっと、結婚願望がほとんどないままで来たけれど、ここ数年、「祖父母に曽孫の顔を見せてあげたい」という思いが強くなってきています。


母方の祖父母は、共に80代で、年齢的には正直そんなに先が長いとは言えません。

孫は私といとこの2人だけ。いとこはまだ20歳になったばかり。

そう考えると、今、ふたりに「曽孫」という存在を与えてあげられるのは、私しかいません。


もちろん、祖父母がそれを願っているとか、「早く曽孫が見たい」などと言ったわけではありませんし、早く結婚しなさいと言われているわけでもありません。


私自身が、研究という特殊な仕事をしているために(理由はそれだけではないけれど)、結婚に対して一般的な女子とは異なる価値観を持っていると自覚しています。だからこそ、「私が普通の30代女子だったら、とっくに曽孫を抱かせてあげられていただろうな」と思うと、胸が痛むのです。



そしてもちろん、「親にも孫の顔を見せてあげたい」という気持ちもあります。

こっちは、まだ年齢的にも若いし、祖父母の場合ほど焦らなくてもいいのですが、私は一人っ子なので、もし私が一生子供を産まなければ、うちの親は「祖父母」になることがないままになってしまいます。



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そう考えると、進学や就職と同じように、結婚というのも、人生の「嗜好品」ではなく「必需品」なのかな、と思うようになりました。

今でも、「結婚はとにかくいいものだ」というステレオタイプ的な価値観は持っていないし、実際に、結婚に伴うリスクや失敗を目の当たりにしてきたという経験があって、積極的に踏み出すことはできません。ひとりの人と一生一緒にいるのが怖いし、いつ崩壊するかという危惧を抱き続けるのは、とても勇気がいります。


でも、「必需品」であれば、どこかできっちりそれをしなければならないのだ、というふうに、考え方をシフトチェンジする必要があるのかなと最近感じます。



祖父母にきちんと、今までの愛情を「返していく」のであれば、それはお金でも物でも言葉でもなく、きちんと大人としての山を登り切ったよ、という証し――結婚・出産――なのではないかな、と思います。