>「巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」は、孔子の言葉で、『論語』の「学而」にみえることわざです。意味は「言葉巧みで表情をとりつくろっている人は、かえって仁の心が欠けているものだ」です。
多分↑これに近いのが私です。
小学校低学年くらいの頃の唯一の親友を私はずっと呼び捨てにしてました。
なんか「エヘヘ」みたいな負け笑顔が似合う、少し気の弱い優しい親友だったのできっと自然と私は呼び捨て、向こうは私に対してチャン付けっていうそんな間柄になっていた。
ある日同居の父方の祖母から「同級生をそんな呼び捨てにしてはいけない」と言われたことがあった
夕方の玄関先だった
確かその親友に冷蔵庫の飲み物なんかを持っていく途中だったと思う
私は素直に「あぁそういうもんなのか」となんとなく腑に落ち、呼び名の後にクンを付けた
ところで私にとって道徳の授業はほぼ暗記に近かった、人はこういう場合に怒る可能性が高いみたいなことも聞かされても、それを覚えないとわからなかった。
つまり「こういう時にこういうことをしてはいけない、ただしこういう場合なら例外的にそれは許される」みたいなことが複雑すぎて理解できなかったのだ。
なので暗記した
そしてなんか面倒だったから親友をクン付けで呼ぶ日を堺に、私はほぼすべての人にクン付けチャン付けをするようになった。
それによって私は他人というのはリスペクトしなきゃいけない存在なんだってことをなんとなく理解させられた。
それはそれでよかったのかもしれない
他人を敬うのは大切だと思う
だがしかしだがしかし…
他の人は自分より偉い、自分というものは取るに足らない存在であるという思い込みというフィルターを通した真実をずっと胸に抱いて生きてきている。
だから私は「皆様、私みたいなもんにはどうぞかまわねぇでやっておくんなさい」という卑屈な笑顔を浮かべながら他人を軽くあしらい続けて今まで生きてしまっている様な気がする。
つまり私は冷たいし薄情で依頼心が強い
依頼心に関しても、知識なり計算なりは私以外の方がそれらをうまくやれるだろうと思っているからなんだと思う。
しかし最近では少し考えを改めるようになってきた気がする
とにかく頭の悪い人が目に留まるようになってきた
例えば飲食店で
店員さん「そちらのメニューの方は少しお時間いただくことになってしまうんですがよろしいですか?」
客の男「よろしくないっていったら早くだしてくれんの?」
みたいな頭のおかしいことを言う輩が割と目につくようになった
あえて言おう!
キチガイが我が物顔で闊歩しているのだ!
キチガイに対して「少し神経質な方」「ちょっと変わってる人」と言うに留める向こう三軒両隣にいる善良な私の尊敬する方々が多数いらっしゃるから、キチガイでも楽しく我利我利と日常を謳歌している
立ち向かう者はいない
いるとしてもやはり我利我利の老害が「若いくせに気に食わない」という理由により回らない頭で怒鳴り散らすくらいだ
私は僭越ながらそんな世の中をもうすこし穏やかにしたいと思いつつ、そんな不遜な連中にはやんわりと注意するようにしている
それで穏便に済ませたい人達の空気を汚してしまっても構わない、そんな他人の感情など取るに足らない
不遜な連中に「そんな態度を他人に取るべきじゃない」ってことを暗記してもらわないといけない
それでもそれは日本人同士で成立することなんだと最近よく感じる
世界には「人に迷惑をかけてはいけない」って当たり前のことを「知らない」人がいるのだ
道徳という言葉さえ知らない人もいるだろう
世界でもっと全世界共通の道徳というものをみつけて全世界でそれを小学校から教えていけば、もしからしたら世の中の争いの半分くらいは無くなるかもしれないと思うのはおこがましいだろうか
卍 チャオ 卍