今日は、岡山県最大にして、日本でも最大級の弥生墳丘墓『楯築遺跡』を訪ねることにしました。
桃太郎線吉備津駅から約3㎞ほどを歩いて楯築遺跡に向かいます。
途中に鯉喰神社があるので、そこまでは、かつて歩いた旧山陽道を通っていきます。
⇒こうなりゃ歩くよ旧山陽道(7日目 吉備津~矢掛)(2015/09/21) 1/3
旧山陽道板倉宿の本陣跡は鯉山コミュニティハウスになっていますが、そこに、旧山陽道の案内図があります。
いい感じのおうち。
板倉宿の案内板。
板倉交差点のところで松山往来と旧山陽道が交差します。松山というのは備中松山のこと。すなわち今の高梁です。そこまで八里。足守までは二里。
雪舟ゆかりの宝福寺までは二里。
庭瀬までは三十丁。
たぶん往時と変わらない道幅の旧山陽道を進みます。
進んで行くと、次の宿場川辺への道標があり、この傍に鯉喰神社があります。
鯉喰神社です。楯築遺跡の北西に位置しており、弥生時代のお墓の上に神社は建っています。
伝説によれば、百済の王子であった温羅(うら。桃太郎伝説の鬼)が鬼ノ城に住み着いて悪事を働いていたところ、朝廷から派遣された吉備津彦(桃太郎伝説では桃太郎)が吉備の中山に石楯を築いて温羅に備えました。これが楯築遺跡に比定されます。両者の射た矢が空中でからみあって落ちた場所が矢喰宮。吉備津彦が放った二本のうち一本の矢が温羅の左目を射し、流れた血でできたのが血吸川。温羅が雉になって逃げ、吉備津彦が鷹になって追ったので、温羅が鯉になって血吸川に潜って逃げ込み、吉備津彦が鵜になって温羅を噛んだところが鯉喰神社というわけです。
このほか、この近辺には桃太郎伝説の場所が点在しています。⇒コチラ
旧山陽道を離れて楯築遺跡に向かいます。
王墓の丘史跡公園の門にぶつかりました。この公園の中に楯築遺跡があります。
楯築遺跡は、円形の南北両側に突出した部分がある形で、全長80mに及びます。園内の散策路を歩いて円丘部分に向かいます。
円丘部分です。
頂上には、巨大な立石が立ち並んでいます。
頂上からの眺め。
楯築遺跡から吉備津駅まで戻りましたが、発車までに随分時間があったので、近くにある妹尾兼康の供養塔に行ってみました。妹尾兼康は平氏の有力な家人の一人で、1183年の板倉合戦で木曽義仲軍と奮戦して討ち死にしました。岡山市立鯉山小学校の校庭の隅にある宝篋印塔が供養塔と伝えられています。それにしては新しいような気がしました。
その少し先に栄西生誕の地があります。
栄西は、吉備津神社神官の賀陽氏の出で、11歳ころ仏門に入り、3年後に比叡山に入って天台宗を学び、1168年に入宋、1187年に再度宋に入って臨済宗を学びました。帰国後、禅の布教に努め、1200年に鎌倉寿福寺、1202年京都建仁寺を開創して日本における臨済宗の基礎を築きました。吉備津神社西の宮内地区が生誕地とされています。
ここには前にも訪れましたね⇒古代・西国街道を歩く ー詳細版-(2017/05/14)