【2026年3月14日放送分】

 

この回は名古屋市のとある場所から始まりました。

 

一行が歩いて行くと「桶狭間の戦い」の案内板があります。今川義元と織田信長の像が立っていす。ということは、ここが有名な桶狭間の戦いの古戦場です。

 

個人的には10年以上前に旧東海道を歩いた時にこの公園に立ち寄りました。

 

名古屋市と豊明市にまたがるこの一帯で織田信長と今川義元が激突しました。

 

そもそも桶狭間の戦いは弱小だった織田信長が大勢力を有した今川を破ったということで知られています。織田信長はうつけ者とか言われた変わり者で到底織田家の跡取りはだめだろうと言われていたのが大逆転、普通なら絶対信長が負けてます。それがどうして勝ったのか。ということで今回のお題は

 

なぜ織田信長は“桶狭間の戦い”に勝てたのか?

 

これは今でも謎の部分がありますね。

 

まず地図を見てみましょう。桶狭間の戦いが起きたとき、信長が治めていたのが尾張国。当時信長わずか、27歳。戦国武将としては無名で駆け出しのルーキーでした。一方で、三河、遠江、駿河という広大なエリアを治めていたのが今川義元。全然違いますね。

 

今川義元は当時42歳、脂が乗り切っていて、足利将軍家とも深い関わりがあり、武田信玄、上杉謙信とも肩を並べるほどのトップレベルの実力者です。信長とは雲泥の差です。

 

兵の数も、信長は三千、今川は二万五千、8倍以上の開きがあります。

 

というわけで今回は信長の勝利の秘密をブラタモリらしく住宅街に残る僅かな痕跡を辿りながら探っていきます。

 

先ほどの古戦場跡の公園から西に3.5Kmの場所に移動します。大高という地域にやってきました。まずは桶狭間の戦いがなぜ起きたのか探ります。

 

随分細い裏道に入っていきます。開けたところに出てくると土塁にぶつかりました。

 

さらに進んでみます。両サイドをみると空堀になっているようです。かなり深く5〜6mはあります。

 

つまりここはお城の跡ですね。ここにはかつて大高城という非常に重要な城がありました。

 

再び先ほどの地図を見てみます。信長が治める尾張国内の南の海岸近くに大高城は位置しています。元々は織田家の支配下にありました。ところが桶狭間の戦いが始まる1年ほど前、今川義元によって奪われてしまいました。

 

この義元の動きにはある狙いがありました。

 

今川の狙いは尾張を手に入れること、その足がかりとしてこの大高城を抑え、信長の清州城に海からも陸からも攻められるようにしたのです。

 

一方、大高城を奪われた信長はかなり危機的な状況を迎えます。そこでどんな手を打ったのか探ってみましょう。

 

大高城跡から向こう側を見ると高台が見えます。信長は、その高台の左端と右端に砦を一つずつ作ったのです。鷲津砦と丸根砦です。

 

大高城がよく見える場所で、今川方としてもすぐに手出しはできません。大高城を警戒しつつ義元の尾張への進軍を食い止める防衛線の役割を果ったのです。

 

信長は今川に奪われた大高城の目の前に二つの砦を築いて対抗しようとしたんですね。

 

実は大高城から北に2.5kmの場所にも今川の拠点がありました。鳴海城です。もともとは織田の支配下にありましたが、鳴海城の城主が寝返ったのです。

 

そこで鳴海城に対抗するために信長が築いたのが善照寺砦です。鳴海城の目と鼻の先にぴったりくっつくように築かれています。さらに鳴海城を囲むように丹下砦と中島砦の二つの砦を築きました。

 

合わせて五つの砦で今川義元の侵攻を食い止めようとしたんですね。

 

その後1年間にも渡って織田と今川の睨み合いが続きます。そしてついに1590(永禄3)年5月19日、今川義元が戦いの口火を切る動きを見せます。

 

いよいよ桶狭間の戦いが始まります。戦いが始まったのはこの日の未明。その時どんな動きがあったんでしょう。

 

今川軍は本隊に先駆けて大高城に兵を送り込んで大量の兵糧を入れさせました。

 

ちなみにこの大高城への兵糧入れという重要なミッションを担ったのは当時19歳の松平元康、のちの徳川家康です。今川義元に仕えていて、命令を受けて丸根砦を攻撃します。丸根砦は今川方になりました。

 

そしてさらに今川軍の別部隊が鷲津砦も陥落させます。信長は大ピンチです。なんと今川軍は朝のうちに織田軍の二つの砦を攻め落としてしまったんです。

 

今川義元が圧倒的優勢です。何とかしなければ、ということで信長自ら3,000の兵を率いて入ったのが善照寺砦です。

 

こうしていよいよ桶狭間の戦いに信長自らが参戦します。

 

タモリさん一行は善照寺砦に向かいます。

 

清洲城を飛び出し、午前10時頃善照寺砦に到着した信長。それからどのように動いたか探っていきます。

 

歩いていくと「砦公園」と書いてある高台があります。まさにここが砦があったところです。階段を上っていきます。結構な高台です。地形としては台地です。砦にはぴったりの立地です。

 

信長はここに約3,000の兵を率いて入りました。

 

敷地内にある建物の屋上に上がって周辺を見渡します。目と鼻の先に鳴海城跡があります。ここの善照寺砦、さらに丹下砦、中島砦で鳴海城を囲むような作戦を信長はとったわけです。

 

これらの砦は丸根砦、鷲津砦が突破されたあとに尾張への侵攻を食い止めるための防衛線の役割もありました。

 

実際に丸根砦と鷲津砦が落とされたとき信長は善照寺砦に駆けつけました。

 

信長がこの戦いで重要視していたことが「情報」です。善照寺砦に信長が入った際に信長は既に諜報部隊を各地に派遣していました。

 

そんな中、信長に、義元に関するある有力な情報が届きます。

「5月19日午前8時ころ今川義元沓掛城を出て大高城に向かっている」

既に駿府城を出発していた今川義元は戦いの前日に桶狭間近くの沓掛城に到着、そして決戦当日沓掛城を出発しおよそ8km先の大高城に向かっているという情報が信長のもとに届いたのです。

 

信長公記によると、信長の二人の重臣が300人ほどを連れて攻めかかったが討死してしまったとあります。かなりの痛手です。ますます大ピンチです。

 

窮地に陥った信長は意外な行動に出ます。なんと善照寺砦を離れて低い位置にある中島砦に移動したのです。中島砦は敵から丸見えの場所です。

 

そして信長はありったけの旗を善照寺砦に立てさせました。旗をいっぱい残しておくことによって本隊が移動したことを敵に悟らせないようにしました。

 

それにしてもどうしてわざわざ危険な中島砦に移動したのでしょう。その秘密を探るため、一行は中島砦に向かいます。

 

南におよそ500メートル、中島砦のそばまでやってきました。2つの川の合流点です。川と川に挟まれた低湿地帯です。いわゆる中州です

 

見晴らしが効くわけでもありませんが、二本の川が堀の役割をしていて低地でありながら防御の備えを構えています。

 

川に挟まれた中を進んでいきます。中島城址と書かれた石碑のあるお宅があります。ここは一般家庭の住宅になっていますが開放されているということで中にお邪魔します。

 

どう見ても危険そうな低地にあるので家臣からは、敵からは丸見えで兵の数もすぐわかる、おやめなさいと馬の轡を掴んで強く懇願されたが聞き入れなかったということです。

 

その裏には信長のみぞ知る真の戦略がありました。

 

いよいよここから信長の大逆転劇が始まります。

 

ということで今回はここまで。次回は、信長はいかにして戦いに勝ったのか進軍ルートをたどります。

 

 

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