ブログ掲載の順番が前後しますが、この日は山陽新聞カルチャー講座「国宝五城めぐり」の第3回目を聴講してきました。
講師は、兵庫県立大学特任教授で播磨学研究所長の中元孝迪さんです。中元さんは、元は神戸新聞の記者をされていたそうで、講座の大半は、姫路城の創業者とも言える池田輝政の話で占められました。
姫路城の起源については、1346年の赤松説と1555-1561年の黒田説がありますが、現在のような大城郭の築城は羽柴秀吉によるものです。
その後、関ヶ原の論功行賞として播磨52万石(2割打ち出しで62万石)を得た池田輝政が入城し、姫路の基礎を作りました。
池田輝政の父、恒興は、織田信長の乳兄弟として織田家に属し、姉川の戦いで犬山城主に、長篠戦い、伊丹、花隈合戦で尼崎12万石を与えられ、信長が本能寺で没した後、山崎の合戦、賤ヶ岳の戦いでは秀吉に組し、長久手合戦で討ち死、家督は輝政に移りました。
輝政は、小田原攻めの武功により吉田15万石を与えられ、吉田城を築城し、三重櫓を多数配置しました。これは輝政の独創デザインで、姫路城に繋がるものです。
その後、関ヶ原の戦いでは家康に組し、その功績で播磨姫路52万石を得ることになりました。この際、実弟の長吉は因幡6万石に、次男の忠継は備前28万石に、三男の忠雄は淡路6万石を与えられ、池田一族合計で百万石の太守の地位を得ました。
このように、池田家は、信長→秀吉→家康と次々に戦国時代の主流派に仕え、徳川政権下では、西国防衛の拠点を任され、西国将軍ともいうべき地位を得るに至り、独特の構造、美観を持つ姫路城を構築することになりました。
その特徴として、まず第一に、重層的な連立天守方式であることがあげられます。連立天守の城は他にも和歌山城、松山城がありますが、和歌山城は分散型であり、松山城は並立型で、姫路城のように集中型で重層的な連立天守を持つお城は例をみません。
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第二に、白色の美。壁、長押、垂木等の外観や瓦の目地も白漆喰で塗りこめられています。
第三に、上すぼみで、上にいくほど狭く高い異例のスマートさ。
第四に、西の丸の展開により、スケールの広い城地であること。
第五に、いくつもの美的空間を作り出す建造物群の重層的な重なり。
さすが世界遺産になるだけのことはありますね。