本日は、国史跡『岡山藩池田家墓所』を訪ねました。位置関係は下図のとおりです。図中「現在地」とある部分が墓所のあるところです。奥深い山中に位置しています。
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山陽線吉永駅を出発します。ここから約8㎞のところに墓所があります。火・水・金に市営バスが出ていますが、日に三便だけなので、今日はウォーキングも兼ねて歩いていくことにします。
西河原橋で八塔寺川を渡ります。 09:06:56
備前市から和気町に入ります。09:12:54
働(かせぎ)集落の脇を和意谷川に沿って歩いていきます。 09:18:30
働集落から吉田集落に入り、山の中に入っていきます。ちなみに吉田集落は、かの岩井志麻子大先生が生まれ育ったところです。このあたりからauの電波が届かなくなりました。 09:36:16
和意谷池です。和気町吉田に位置しています。
ここを右折して和気町から備前市に入り、和意谷集落に向かいます。10:20
和意谷集落に入りました。
いよいよ池田家墓所に入っていきます。結構広いです。
この墓所は、岡山藩池田宗家初代藩主池田光政の祖父・輝政と父・利隆の墓所がある京都妙心寺護国院が炎上したことから改葬したのが始まりです。
寛文5年(1665年)、家臣の津田永忠に命じ備前国内での墓所選定の作業を行い、1年余りの探索の後、和気郡脇谷村を最終候補地に選定、寛文6年(1666年)10月、光政の実地検分によりこの地が墓所に決定されました。
翌寛文7年(1667年)正月7日より墓地の造営を行い、閏2月13日に儒式の儀礼に則り輝政・利隆の改葬が執り行われました。江戸城空堀普請の手伝いのために工事は中断しましたが、寛文9年(1669年)に墓域の工事が完了しました。
同年3月16日に光政が参拝し、墓祭が執り行われました。以後、毎年3月に墓祭が行われ、藩主および池田家一族の参拝が続けられました。
石鳥居をくぐって山に分け入ります。
見た目は歩きやすそうですが、イノシシが掘り返してデコボコ道になっています。
枯れ葉が積もってよく滑ります。一回、滑ってコケました。
お茶水井戸があります
まずは、一の御山。池田輝政の墓所で、墓石は亀趺と呼ばれる亀形の台石の上に乗っています。墓石の亀趺は天禄辟邪(てんろくひじゃ)という古代中国に伝わる架空の動物で、三品の地位の人物の墓に用いられていました。
二の御山。池田利隆とその正室鶴姫の墓所。
四のお山。池田慶政(8代藩主)とその正室宇多子の墓所。光政の子・2代藩主綱政より7代斉敏までは曹源寺に埋葬されていましたが、慶政・茂政の2代はここに埋葬されています。
五のお山に向かいます
五の御山。池田茂政(9代藩主)とその正室萬寿子の墓所。
三の御山。池田光政とその正室勝姫の墓所。
少し離れて六の御山。池田輝興(赤穂藩2代藩主)、池田輝尹、池田政実、池田鋭子、池田恒元(山崎藩初代藩主)の墓が並び、少し離れて池田政元(山崎藩2代藩主)の墓があります。
七の御山に向かいます。
道が少し険しくなってきます。
こんな道を通って参拝している人がいるとは思えん。
ほんとにこの道か
やっと七の御山に到着しました。池田利政(利隆の弟・播磨時代の船上城代)、池田政虎(利隆の弟)、池田政貞(光政の弟)、六姫(光政の娘)の墓があります。
ここからまた歩いて吉永駅に戻りました。おかげで今日の歩数は3万5千歩を超えました。