「天理市制60周年記念 内山永久寺の残像」(2014/08/02)


恥ずかしながら、私は長らく「内山永久寺」というお寺の名前を知りませんでした。初めて知ったのは、昨年9月22日に山辺の道を歩いたとき石上神宮の南に「内山永久寺跡」の碑を見たときです。このときに石上神宮の神宮寺として大伽藍を誇ったが廃仏毀釈によってすべて破壊された「内山永久寺」という寺の存在を知りました。


今年は、その内山永久寺の創建900年にあたるそうです。同時に天理市制60周年にも当たることから、天理市立文化センター1階展示ホールで、「天理市制60周年記念 内山永久寺の残像」の展示をやっているということで、平成26年8月2日に観にいってきました。期間は8月31日(日)までの 9時から17時、月曜日は休館、入場無料です。


*画像はガラケーで撮ったものなのでボケボケです。すみません。
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内容としては、内山永久寺の仏教美術や建造物を紹介するパネル展示中心で、実物の展示はほとんどないのですが、これらの実物を一堂に会して展示したら見応えあるだろうなあと思いましたね。


流出した仏像・仏画・経典等はいずれも優品揃いで、海外に流出し、ベルリン民俗学博物館が購入した真然筆と伝えられる真言八祖像などが第二次世界大戦末期のベルリン市街戦消失したりしていますが、日本国内に残存した宝物が、東大寺、奈良国立博物館、東京国立博物館、出光美術館、藤田美術館などに分散して保存されているようです。私は、このうち、東京国立博物館の愛染明王坐像を拝観したことがある程度です。ほかに奈良国立博物館でも拝観したような記憶もあるのですが、何だったか忘れてしまいました。


内山永久寺は、三方を山に囲まれていることから内山といい、院号を金剛乗院といいました。本尊は阿弥陀如来。興福寺との関係が深く、かつては多くの伽藍を備え、大和国でも有数の大寺院で、江戸期以降は、西の日光とも称せられたそうです。


永久年間(1113年-1118年)に鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第2世院主の頼実が創建し、その後、堂宇の整備が進められました。当初から興福寺大乗院の末寺としての性格をもち、また本地垂迹説が広まるにつれて石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようになり、興福寺の大乗院の権威を背景として、室町期には絶大なる勢力を誇ったそうで、保延2年(1136年)に真言堂、同3年に八角多宝塔が建立され、その他、吉祥堂、観音堂、常存院、御影堂、経蔵、鐘楼、温室(浴室)、四所明神社、玉賀喜社など多数の堂宇が立てられ、天正13年(1585年)の時点で、56の坊・院が存在したそうです。これらの概観は、天理市文化センターのミニュチュアで見ることができました。敷地跡には、今は天理教関係の多くの建物や民家が並んでいるようです。


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文禄4年(1595年)に豊臣秀吉から971石の寺領を与えられて以降、江戸時代に入ってもこの寺領が維持され、近世には興福寺の支配下から離れ、真言宗寺院となりました。


また、修験道当山派との関わりも深く、当山三十六正大先達衆を構成する一寺となっていたため、修験道が明治の神仏分離令で禁止された結果、その後の廃仏毀釈運動により致命的な打撃を被ることになりました。

廃仏毀釈の嵐の中で寺領を没収され、経営基盤を奪われた内山永久寺は廃寺となり、僧侶は還俗し、石上神宮の神官に鞍替えしています。興福寺の僧侶が春日社の神官に鞍替えしたのと同じ図式ですね。一般僧侶も最寄りの神社などに身を寄せたのですが、所詮は余剰人員になるので、そのほとんどは数年のうちに、教職・官吏・警察官などに転職したそうです。僧侶、神官という職にこだわることなく、日々の生活を優先したということです。坊主に信仰心とか信念のようなものは、あまりなかったんでしょうね。


さらに、堂宇や什宝は破壊と略奪の対象となりました。寺院の建造物は打ち壊されて、付近村落住民の建築材や燃料となり、仏像も経典も焼かれたり、持ち去られたりし、文書記録の類も焼却散逸して完全に廃墟化し、本堂以下堂塔伽藍・塔頭の跡地は耕されて、地元農民の畑地となりました。


東京美術学校校長であった正木直彦によると、内山永久寺は石上明神の神宮寺であったが、永久寺廃寺の検分に役人が出向いたところ、寺僧は還俗した証拠として、役人の眼前で薪割りを以って本尊の文殊菩薩を頭から割ってしまったそうです。さすがに廃仏毀釈の人もこの無慚な所業にあきれて坊主を放逐し、そのあと村人が寺に闖入して、衣類調度から米塩醤鼓まで奪い去ったのですが、仏像仏具は誰も持っていかなかったので、庄屋中山平八郎に預賃料年15円で預からせ、これが時に経つにつれ中山の個人所有になっていき、現在、藤田家(藤田美術館)で所有する藤原期の仏像仏画の多くは中山の蔵から運んだものだそうです。古仏・仏画は二束三文で、金泥の経巻を焼きその灰から金を採る商売が起こったほどだそうです。


こういう話を聞くと、先日、奈良国立博物館で見た、修験道当山派の醍醐寺の僧侶たちが廃仏毀釈の嵐の中、寺の文化財を守り抜いた話と比較してしまいます。また、湖北の観音さまのように村の人々が土に埋めたりして守ってきたことを思えば、内山永久寺や興福寺の坊主がいかに堕落した存在であったかと思わずにはいられません。


廃仏毀釈を「狂気の沙汰」と評する向きもあるようですが、これまで何度か触れてきたように、廃仏毀釈は明治政府が誘導したものではなく、政府の神仏判然令を契機として、国学者などが中心となって民衆が起こしたものです。廃仏毀釈による影響について、地域差や寺による差が出ているのは、やはり、それなりに理由があるのであって、興福寺や内山永久寺が壊滅的な打撃を受けたのは、修験道の関わり合いが深かったという以上に、坊主どもに信仰心やら信念というものが薄く、自らの処世ばかりを気にかけていたこと、領地の民衆を大事にしていなかったので味方につけられなかった(逆に略奪を受けた)ことなどがあるのではないかと思います。


そして、興福寺と内山永久寺の明暗を分けたのは、興福寺が明治30年文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されるまでなんとか持ちこたえていたのに対し、内山永久寺は早々に人も建物も文化財も消失散逸してしまっていたということではないでしょうか。


興福寺についてはコチラ


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神仏分離についてはコチラ

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