こんにちは。

 

暑い日が続いていますね。

 

昨日のニュースでは、猛暑が予想されるので、

日中は外に出ないでくださいと言ってましたが、

そうもできないですよね・・・

いろいろ予定もありますし・・・

 

私も日課の散歩をどうするか、考え中です。

 

 

さて、今回はfullの訳し方について、取り上げたいと思います。

 

Fullって、フルサイズとか、フルサポートとか、

ほぼ日本語になっていますよね。

 

 

なので、単語に対してなじみがあるという方も

多いのではないでしょうか?

 

そして、fullを日本語に訳すとき、

どう訳しますか?

 

 

おそらく、「すべての」とか「あらゆる」とかいった

訳がすぐに思い浮かぶのではないかと思います。

 

全部を内包しているイメージですね。

 

「フルサイズ」とか、「フルサポート」も、

そういう意味に訳せますよね。

 

フルサイズを用意しています!と言われれば、

すべてのサイズがあるんだろうな~と思うし、

フルサポートいたします!と言われれば、

何から何までサポートしてくれるんだろうな~と思います。

 

では、この訳はどうなるでしょうか?

 

 

Now you can address the full spectrum in your workflow.

   ↓

ワークフローの広範なニーズに対処できるようになりました。

 

 

これは例えば、新商品の解説文書なんかで

出てくるような文章ですね。

 

マーケティング文書というやつです。

 

そして、この場合のfull。

 

「すべてのニーズ」と訳したいところですが、

今回は「広範なニーズ」という訳語を当てています。

 

 

「すべてのニーズ」というと、1から10まですべて揃うイメージ。

 

「広範なニーズ」というと、あるカテゴリの中のものの

おおかたを含んでいるというイメージ。

 

「すべてのニーズ」が100%なら、

「広範なニーズ」は80~90%といったところでしょうか。

 

どうして「広範なニーズ」としたと思いますか?

 

 

もちろん、「すべてのニーズ」としても、

もちろん間違いではありません。

 

しかし何でしょう、ちょっと大きく出すぎというか。

 

それに、「すべての」としてしまうと、

今後の伸びしろを遮ってしまう感じがあります。

 

そのため、「広範な」としているわけです。

 

マーケティング文書では、

こういう書き方をすることが好まれる傾向があります。

 

あと、「すべての」というより、「広範な」というほうが、

字面としてかっこいいというのも、

もちろんありますね。

 

 

辞書を引いても、fullの訳語は「限度いっぱい」とか、

「満ち満ちた」みたいな訳語が上の方に出ていると思いますが、

敢えて辞書に逆らって訳語を当ててみる。

 

そうすると、対象となる領域にマッチする

訳文が出来上がります。

 

 

そう考えると、翻訳ってやっぱり面白いですね!

こんにちは。

 

翻訳者&ライターの菅葉奈です。

 

今日は村上さんの小説の話題です。

 

村上さんの最新作『壁とその不確かな壁』、お読みになりましたか?

 

私は発売日に買って読みました!

 

良かったですね~。

 

あの名作をほうふつとさせる内容で、序盤はかなり興奮しました。

 

この小説には「資格がある」という表現が頻繁に出てきますが、

小説でこの題材を使う資格があるのは、

世界中で村上さんただ一人ですよね!

 

 

それと、なんといっても、最後のほうのシーンの、

少年が語る言葉。

 

これにもグッときました。

 

すごくすごく、切実で、少年の想いがひしひし伝わってきました。

 

読み終わった後も、何度もそのシーンを思い出しています。

 

心にずっととどめずにはいられない、そんな言葉でした。

 

 

さて、表題の件です。

 

小説から抜粋します。

 

 

「あるいは余計なことだったかもしれませんが、このあたりでは庭というのは、それはそれで、大事な意味を持つものですから」と小松さんが言った。

「もちろん」と私は適当に同意した。

 

(226ページ 村上春樹『街とその不確かな壁』村上春樹/著(新潮社))

 

 

読まれた方、ここの箇所で「?」と思いませんでしたか?

 

私は思いました。

 

ちょっと説明しておくと、主人公の「私」が転職して

新しい住まいを持つことになり、

そのお世話をしてくれた人が、庭師を入れて

庭の手入れもしておいてくれた。

そのあとのやり取りです。

 

という内容はどうでもよくて、問題は、話者A(お世話した人)の

意見に対して話者B(私)が同意した、というところ。

 

その話者Bの同意の言葉が?なわけです。

 

普通、日本語で話すとき、こういう風に意見されて同意するとき、

「もちろん」とは言いませんよね?

 

一番自然なのは、「そうなんですね」という相槌です。

 

「もちろん」とは言わない。

 

でも、英語では「もちろん」が自然です。

 

Of courceというやつです。

 

『ノッティングヒルの恋人』で、ヒュー・グラントが

これと同じような話の流れでOf courseと言ってましたね!

 

そうなんですねを英語にするとOKとかI agreeとかになるかと思いますが、

それよりもOf courseと返す方が自然だし、好印象です。

 

 

「あるいは余計なことだったかもしれませんが、このあたりでは庭というのは、それはそれで、大事な意味を持つものですから」と小松さんが言った。

「もちろん」と私は適当に同意した。

   ↓

“You may not want to,” said Komatsu, “but the garden has an important meaning for some reason around here.”

“Of course,” I agreed without considering.

 

訳してみました(文芸翻訳難しい…)。

 

英語だと自然だけど、日本語だとやっぱり違和感ありますね。

 

この英文から和訳するとき、訳者が「もちろん」と

訳することはない気がする。

 

でも、村上さんの中ではきっと自然なんでしょう。

 

村上春樹は翻訳を前提に小説を書いているのか?

にも書きましたが、

村上さんは日本人と英語スピーカーの真ん中くらいの

視点で見ておられる方なので、

こういう相槌がすっと出てくるんだと思います。

 

ということを、純・日本人の私は思うのでした。

こんにちは。

 

フリーランス翻訳者&ライターの菅葉奈です。

 

長らくブログをお休みしてしまいました。

 

それは目の激しい痛みのせいです。

 

 

前々から、日光を長時間浴びると、目が痛くなるようになっていました。

 

5年くらい前からでしょうか。

 

でも、一晩眠ると治るので、それほど気にしていませんでした。

 

 

笑い事じゃなくなったのは、長時間日光を浴びたときだけではなく、

屋内の照明を浴びたときとか、本を読んでいるときも目が痛むように

なってからです。

 

ジン・ジン・ジン

 

ジク・ジク・ジク

 

目を開けているのも辛い痛みです。

 

日光も、長時間浴びるまでもなく、ゴミ出ししたり、洗濯物を干したり、

短時間浴びるだけで痛むようになりました。

 

ベッドと並行に窓がある部屋に寝ていたのですが、

カーテンレールの上から差すほんの少しの日光のせいで、

朝起きると目が痛くなるようになりました。

 

一晩寝ても、もう治りません。

 

 

それからは悪化の一途を辿りました。

 

 

目が痛くて窓のある部屋にいることができなくなり、

窓のない空間(洗面所)に椅子を持って行って過ごす日々。

 

目を使わなくてもいい、ラジオを一日中聞き続けていました。

 

(おかげで最新のヒットチャートに詳しくなりました)。

 

 

眼科も受診しましたが、西洋医学の医者は役に立ちませんでした。

 

というか、状況を説明して治療してくれるように頼みましたが、

「できることは何もない」と言われて

突き放されました。

 

 

それから約半年・・・

 

試行錯誤して、また元通り、窓のある部屋で生活できるようになりました。

 

日中、外出できるようになりました。

 

 

目の痛みが激しくなってからいろいろ調べましたが、

私と同じような状況に苦しんでいて、

そこから回復したという人の声は見当たらなかったので、

なかなか貴重な体験談なのではないかと思います。

 

 

私はいくつかの方法を組み合わせて治していきました。

 

この過程で、情報リテラシーが上がりました。

 

世の中に情報は膨大にありますが、それを漫然と見ていただけでは

何も得られない。

 

何らかの目的を持って取捨選択、活用していくことで

初めて意味あるものになるのではないかというのが

私の今回の一件から得た収穫です。

 

 

というわけで、またボツボツ始めていこうと思いますので、

よろしくお願いいたします!

『村上さんのところ』で、

 

『「村上春樹は翻訳されることを前提に小説を書いている」

と言われているのを聞いたことがありますが、本当でしょうか?』

 

という質問があり、それに対して村上さんが

 

「そんなことは考えたこともない」

 

が答えていました。

 

これについて、考察してみます。

 

 

私は評論家でも何でもないのですが・・・

 

これも『村上さんのところ』で、村上さんは、

 

「読者は僕の小説をどのように解釈してもいい。

それは全部正しい」

 

と言っていたので、その言葉を信じて、

思うままを書かせていただきます。

 

 

話を戻します。

 

村上さんは、翻訳を前提に小説を書いているのか?

 

 

この場合の翻訳は、「英語への翻訳」と定義します。

 

その質疑応答では、どこのどの部分がということは

言及されていませんでしたが、

思い当たるところはあります。

 

例えば、受話器を取って(スマホを手に取って)、

ダイヤルしても、呼び出し音が鳴らない場合。

 

 

日本人なら、「電話がつながらない」と言いますよね。

 

しかし村上さんは、小説の中で、

「電話は死んでいる」という

表現をしています。

 

『ダンス・ダンス・ダンス』に出てきましたね!

 

あと、ほかでも見たことがあります。

 

電話が死んでいるというのは、

the phone is deadという英語表現の和訳です。

 

英語スピーカーは、電話がつながらないとき、

電話が死んでいるって言うんですね。

 

でも、日本人はそんな言い方しないし、

日本の小説で電話がつながらなくて、

「この電話は死んでる」なんて言い回しは出てきません。

 

でも、村上さんは出す。

 

 

もう1つ挙げると、

「【翻訳上達塾】英文に()カッコが出てきたときの対処法」

に記載した()、村上さんはまさに英語スピーカーがつける

そのやり方で、つけています。

 

『騎士団長殺し』で、その表現をよく目にしました。

 

 

ということで、「翻訳を前提に小説を書いている」

という仮説が出てきたのだと思います。

 

 

村上さんが著作を出すと、必ず英語に翻訳されて出版されます。

 

なので、「翻訳されることを前提に小説を書いている」という考えは、

一理あります。

 

でも、その言い方って、なんか毒ありますよね。

 

村上さんは日本の読者に向けてではなく、

翻訳というワンクッションを置いた

英語リーダーを念頭に置いて

小説を書いてるんだろう!みたいな。

 

お高くとまってるな!みたいな。

 

 

これについて、私の考えを述べます。

 

村上さんは、ご自身で言っておられる通り、

翻訳されることを前提に書いてなんていないと思います。

 

村上さんは、言語の境界がなくなってしまっている

のではないかと思うのです。

 

私も同じような経験があるからです。

 

 

例えば、

 

There are red, blue, yellow and orange flowers.

 

という英文があるとします。

 

 

直訳すると、

 

「赤、青、黄色、そしてオレンジの花があります。」

 

となります。

 

しかし私は、基本的に、最後の「そして」は

訳出していませんでした。

 

列記するときの最後のワードに「そして」と付けるのは、

英語の決まりであり、

日本語では付けないからです。

 

「赤、青、黄色、そしてオレンジの花があります。」

「赤、青、黄色、オレンジの花があります。」

 

2番目のほうが、自然ですよね。

 

敢えて「そして」を入れる必要はありません。

 

しかし、英語を読んでいると、

最後の単語の前のandに頻繁に出くわします。

 

そのたびにandを取りました。

 

毎日毎日、取り続けました。

 

そのうち、

最後に「そして」ってあっても、

別に変じゃないんじゃないか?

と思うようになりました。

 

最初の頃に感じた違和感が消えたのです。

 

なので、最近はandを訳出しています。

 

 

この私の体験と、村上さんの小説とは通じるところが

あるのではないかと思うのです。

 

つまり、最初はphoneがdeadなんておかしいだろう、

と思っていたけれど、

だんだん、「別に変じゃないかな?」と

考えが変わってきて、自然に使うようになったということです。

 

通常、我々は日本語スピーカーであり、英語圏の人々は

英語スピーカーです。

 

日本人は毎日日本語を読む。

 

英語圏の人々は毎日英語を読む。

 

それぞれ、全く性質を異にする2つの別々の言語を読みます。

 

 

しかし、日本人なのに英語をたくさん読んでいる、

もしくは英語圏の人なのに日本語をたくさん読んでいると、

それらを硬く隔てていた境界が弱まって、

どちらにも行き来できるようになる。

 

そういうことが起きるのです。

 

日本語スピーカー、英語スピーカーではなく、

「日本語&英語スピーカー」

とでも呼ぶような状態になるわけです。

 

この場合、本人に自覚はありません。

 

自分の言語の中に、自然にとどまっていると考えます。

 

しかし、日本語しか読んでいない日本語スピーカーが読むと、

違和感を覚えます。

 

その結果、「翻訳されることを前提に小説を書いているんだろう」

という糾弾につながってしまうのです。

 

 

というわけで、私は、村上さんを100%支持します。

 

村上さんは、翻訳されることを前提に小説を書いていません。

 

私たち日本人の読者のために、心を込めて、

小説を書いてくれています。

 

ちなみに、私は『村上さんのところ』で、

質問を送って、回答をもらいました!

 

優しくて、私を勇気づけてくれるあたたかい文章で、

何かつらいことがあるたびに、

私はその文章を読み返しています。

こんにちは。

 

フリーランス翻訳者&ライターの菅葉奈です。

 

 

今回は、翻訳の解説です。

 

和訳です。

 

 

翻訳者になる前、私は思っていました。

 

ここってどう訳するんだろう?

 

でも、誰にも聞けない・・・

 

あるいは、通信教育を受講していて、

講師に訳文を添削してもらって、

返してもらうんだけど、

どうしてそう直されているのか

わからない・・・

 

この記事が、そんなお困りを

解消するような記事になればいいと思います!

 

今回取り上げるのは、以下の英文です。

 

Apples can have a positive effect on your body (both the skin and internal organs).

 

訳してみてください。

 

どう訳しましたか?

 

 

 

リンゴは、あなたの身体(皮膚と内臓の両方)に良い影響を与えることができます。

 

こう訳しましたか?

 

 

もちろん、これでも間違いではないんです。

 

あっています。

 

でも、ちょっとよく見てみてください。

 

訳文の中にあるカッコ、不自然じゃないですか?
 

(皮膚と内臓の両方)
 

これです、これ。

 

リンゴは、あなたの身体(皮膚と内臓の両方)に良い影響を与えることができます。

 

 

日本語を書くとき、

ここにカッコをつけたりしないですよね。

 

リンゴは、あなたの身体の、皮膚と内臓の両方に良い影響を与えることができます。

 

このほうが自然ですよね?

 

カッコを取ったあと、文をつなぐために

「の、」を入れています。

 

原文にカッコがあると、

訳出しなければいけない

ような気がします。

 

しかし、訳出すると自然な日本語で

なくなってしまう場合は、

取ってしまっても

問題ありません。

 

これ、イングリッシュスピーカーのクセなんですね。

 

 

文章をカッコでくくるのが好きなんです。

英文を読んでいると、

カッコのついた文章によく出くわします。

 

イングリッシュスピーカーって、

カッコでくくると、

カッコよく思えるのかしら。

 

日本人だとちょっと共感できませんが。

 

なので、あちらの文化はあちらの文化で

リスペクトして構いませんが、

それをこちらの文化まで

持ってくる必要はありませんよ、

というお話でした。

 

私の場合は、訳するときに

だいたい取ってしまいます。

 

逆に、英訳するときは、

カッコを使うと、

「おしゃれじゃん!」

と思ってもらえるかもしれないですね。

 

 

さらに言うと、your body(身体)

の訳は、

取ってしまってもいいですね。

 

 

皮膚と内臓にいいということはつまり、

身体について言っていることが明らかなので、

冗長性を回避するために

取ってしまっても問題ないのです。

 

リンゴは、あなたの皮膚と内臓の両方に良い影響を与えることができます。

 

自然ですよね?

 

日本人が書く日本語ですよね?

 

 

というのが、今日のお話でした!

 

 

解説してほしい訳文がある方は、こちらまでお寄せください:

https://www.hanakan.org/contact

 

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