【2】 「私」とは何者なのか? | 自分自神への扉☆TOSHI

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「私」とは何者なのか?

 

例えば、私について少し語ろう。

 

私は世間では「花田俊亮」という名で通っている。

 

勿論、私もその名前を使って生きている。

 

だがしかし、私は果たして「花田俊亮」なのだろうか?

 


 

その「花田俊亮」とは一体何者なのか?
 
その名には様々なイメージというものが在り、そのイメージは自分(エゴ)に対する印象をはじめ、他者の印象から作り出された産物ではなかろうか。
 
そして恐ろしい事は、そのイメージ通りに生きようとしてしまう事である。
 
だから多くの人々は病む。
 
私はそう思っている。
 

元来、人間というものは自然物であり、それは草木などと何ら変わりはない。
 
つまり、自分で自分に与える印象や他者から与えられる印象などの影響は受けないはずなのである。
 
ところが世間は違う。
 
あなたの心の中を探ってみると良い。
 
あなたは本当に自他共の印象(イメージ)の影響を微塵も受けていないと言い切れるだろうか?
 

かく言う私も、かつてはこの事に気付けず、自分や他者が作ったイメージの中に自分を落とし込んで生きていた。
 
それはそれはとても不自由なものであり、窮屈極まりないものであった。
 
それでも私は「イメージ通り」に生きようとしていた。
 

「イメージ」とは感情要素である「印象」から始まり、そこに思考要素が加わって「記憶化」されるものである。
 
つまり、「固定化」される。
 
そうなったらもう変わらない。
 
自分に対するイメージも、他者からのイメージも裏切る事など出来やしない。
 
その通りに生きなければならない。
 

やがて人は精神的不自由を感じる。
 
だが、それを何とかしようとしたところで何とかならない。
 
記憶の力を侮るなかれ。
 
固定概念とは恐るべき力を有しているのである。
 
そうこうしているうちに、人は「不自由」と「自由」の狭間で苦しむ事になる。
 

そうして中にはスピリチュアルの世界に救いを求める人も居る。
 
瞑想し始める人も居る。
 
それはそれで本人の自由意志であるが、多くの場合において何をしても変わらない。
 
何故変わらないのか?
 
あなたはお分かりだろうか?

 

(腹が立った?)

 


そこに正解など無いのであるが、あえて私の見解を述べるのであれば、人が変わらない要因の一つは「変わろうとする事」である。
 
つまり、そこには『自己否定』や『期待』などが渦巻いており、変わるという「結果」を求めている。
 
今の自分を否定したり、今の自分に不満を抱いていたりするような状態において、果たして何が変わるのだろうか?
 
残念ながら何も変わらない。
 
一見矛盾するように感じるかもしれないが、
 
・結果を求めない事
 
・変わる事に執着しない事
 
これが大事なのである。
 

そもそも自然の摂理においては全て変化しているのである。
 
ただ、脳(正確には思考)はそれに気付けないだけである。
 
だから「昨日と何も変わっていない」と思うのだ。
 
微妙な変化の連続には気付けないのである。
 

ところで、本題に戻ろう。
 
「私」とは何者なのか?
 
私の見解では、
 
「私」とは何者でも無い
 
だからもう何者かになろうとしないで済む。
 
実に気楽である。
 
無駄な努力もしないし、ストレスも溜まらない。
 
誰かと比較する事も無い。
 
誰かに認められようともしない。
 
ああ、なんて自由なんだ。
 

世間に蔓延しているエセスピリチュアルは、「何にもしなくていいのだ」となる。
 
勘違いも甚だしい。
 
ただ毎日ゲームをして、ただ毎日寝ていて、ただ毎日遊んでいるような類いの人生に、一体何が「在る」のだろうか?
 
せいぜい在るとすれば、曇り切った魂くらいなものか。
 
なんて悲しい事なのだろう。
 

「私」が何者でもなく、何者かになろうとする必要が無いからこそ、自然体のまま、日々の暮らしを丁寧に感じながら生きられるのだ。
 
日々の行動を無理なく出来るのだ。
 
そこを履き違えてはならない。
 

私?
 
私は何者でも無いし、何者かになろうとも思っていないので毎晩「ウィスキーを飲む私」となっているのである。
 
何か異論でも?
 
 
 
 
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