魂たちへの伝言

魂たちへの伝言

宇宙人。自由人。
ただ「在る」。




私は私の思考を通して、父親に哀愁を感じてきた。



どこか寂しげで、どこか哀しげで。



その感覚がどこから生まれているものなのか分からずに生きてきた。



でもようやく分かった。



私の中に哀愁があったのだ。



いや、私が哀愁だったのだ。



私がその波動を身に纏いながら生きてきた為に、それを父に投影してきたのだ。



私が哀愁だったのだ。



私が寂しさであり、哀しみであったのだ。



私はそれに気づかずに、その寂しさや哀しみに対して怒りを感じてきた。



無意識に。



自分自身に。



私は無意識の中で寂しさや哀しみである私自身に対して怒りを抱き続けてきたのだ。



情けない!



どうしようもない!



弱い!



克服しろ!



強くなれ!



などと。



私は私を責め続け、そうしていつしか罪悪感に苛まれていた。



罪悪感は罪悪感を呼ぶ。



何度も人生の中で味わった感情だ。



自分が出したエネルギーは確実に回収する羽目となる。



いつかの寂しさが、いつかの哀しみが、怒りや罪悪感を携えて、そうして私の心身を蝕んできたのだ。



ようやくその事実を素直に認める時が来た。



認めた途端に不思議と0歳だった頃の記憶が映像として現れた。



それは私が高熱で死にかけた時の病院での様子だった。



まあ、そんな事はどうでもいい話だが。



もしもあなたが男性ならば父親に対して、あなたが女性ならば母親に対して、ずっと抱き続けてきた思いや気持ち、感情を正確に認める事をお勧めしたいと思う。



有耶無耶にしてきた思いを逃げる事なく正確に。



そうすれば、波動も変わり、心身、そして人生も変わっていくと感じる。


幼き頃から僕らは「固定観念」という【埃】を被った。



こうでなければいけない。

これが常識だ。

皆そうしてる。

それはダメだ。

これが大事だ。

欠点を直せ。



僕らはとても多くの【埃】を被ったもんだ。



そして息が出来なくなった。



苦しみの中で何とかもがきながら、それでも生きてきたんだ。



「埃が苦しくて生きていけない」なんていう弱音を吐かせてはもらえなかった。



親、出会う人たち、世間、常識が、その弱音を吐く事を許さなかった。



だから…



「強くあらねばならない」と。



そこから脱落したならば、「自分はダメな人間」だと自らレッテルを貼った。



そうして闇の中で苦しんだ。



強くなれたように感じられたなら、「自分は勝者だ!生存競争に勝ち残ったんだ!」と優越感に浸った。



闇を抱えながら…



思考が求める欲求を満たそうが満たすまいが、結果は同じなのである。



どちらにせよ虚しいのだ。



なんせ、【埃】を被ったままなのだから。




そろそろ【埃】を取り払わないか?



綺麗サッパリと。



その息苦しさ、生き辛さから脱さないか?



生きるという事は、いつか被った【埃】を取っ払い、もう一度楽に、自由になる事を指すんだよ。

私はこれまで何度も悩みを抱えた事があり、その度に解決策を考え、それにまつわる行動を取り、時には解決し、時には解決しなかったという経験をしてきた。



今振り返れば、単なる馬鹿者だ。



なんてくだらない事を繰り返していたのだろう。



そう思う。





私の身に何かが起きる。



すると私はすぐさま反応する。



何故なら「怖い」からだ。



私にとって重要な事は「起きた出来事」なんかじゃない。



「怖い」事なのだ。



だからこそ、必死になる。



ダメなら逃げるしかない。



この繰り返しだった…




自分が「怖れ」を抱きながら生き続けてきたという事実に気づいていなかった。



これこそが問題であり、そこから「悩み」も生まれていたのだ。



そうして私は、ようやくあらゆる「悩み」から解放された。



私にとって不都合な事は今でも起きるものの、それらが「悩み」とはならないのである。



それらは「単なる出来事」として勝手に処理される。



私に合わないエネルギーは流れ去っていくのである。

私は26の時にカウンセラーとしてデビューし、その後、様々な事業を営んできたものの、カウンセラーだけは辞めなかった。



臨床現場では心理学だけでは足りず、脳科学、量子力学、エネルギー医療、哲学、神話、宗教学など、とにかく役に立つかもしれないものは手を抜かずに学んで実践し続けてきた。



カウンセラーやライフコーチングが私の「使命」だと強く考えていたので。



しかし、数年前にカウンセラーやライフコーチングを辞めた。



20年以上続けてきた事を割とあっさり辞めた。



たぶん「使命」なんかではなかったんだと思う。



だからこそ、あっさり辞めれた。




昨年の夏から体調不良となり、事業が思うように出来なくなった。



日常生活さえ。



毎日ベッドに横たわりながら読書だけは続けていた。



ようやく回復期に入ってきたが、それでもまだ発作が起きる事もある。



私はそんな暮らしの中で使命を【観た】。




部屋の片隅に座り、家族の様子を眺める事。



今日は調子が良さそうだとか、今日は今ひとつだとか、そんな日々の家族の様子を眺める事。



それが私の【使命】だったのだ。



大した事ではないかもしれないが、私にとっては大した事である。



日々の「変化」を観察しながら、それに対して幸せを感じ、生きているとはどういう事かを感じられるからだ。



諸行無常。



変わらないものは無い。



唯一変わらないものは愛、魂。



ただそれだけ。



併せてお読み頂きたい記事


「真の豊かさ」とは定義が無いものの事を指す。



経済的豊かさ、精神的豊かさなど、「◯◯的」などという制限、制約が無いものが真の豊かさである。



そうでなければならない。



つまり、「豊かさ」とは「無制限」の事を意味するのである。



そこに限定など無い。



経済的豊かさなどとは言わないのだ。



それは経済という限定を受けている。



それを真の豊かさとは呼ばないのだ。




戦後、この国は豊かになったと言われてきたが、果たして何をもってそう言うのか?



物質的豊かさか?

経済的豊かさか?



どれも制限がある。



制限で言うならば、むしろ、この国は貧しくなっているのではないだろうか?



あれはダメ、これもダメと。


ああでなければいけない、こうでなければならないと。




真の豊かさとは無制限、つまり、「自由」の事を指し示す。



何かの条件や制限、制約に心が縛られているうちは、決して人は豊かにはなれないのである。



そして、自由にも…



無論、ワガママ自分勝手に人を傷つけても構わないなどと言っている訳では無い事くらい承知だろう。