実母をおくる | シェリーそそいで生ハムきって

シェリーそそいで生ハムきって

ベネンシアドールでコルタドールな在日コリアンのブログ

<ながながと私ごとの話を書きます。お目汚しとは思いますが、備忘録として書き残したかったことですので、お許しください。 イ・イルリョン拝>

江津インターチェンジに到着たのは午後1時をすこし回った頃でした。
姫路を出発してからおおよそ五時間のドライブでした。
1月の山陰とはいえ、島根県でもだいぶ西に位置する江津市はそれほど雪の降る町ではないそうで、この日も天候に恵まれ、広島から山越えする途中にしか雪を見ることはありませんでした。
今回のドライブの目的は、実母のお骨を引き取ることでした。

実母に関しての記憶はほとんどありません。
物心つく前には父と別れ私を置いて家を出た人であり、高校時代に一度だけ食事を共にしたことがあるのですが、私に目が似たちょっと派手な女性という印象しか残っていません。
正直面影すらも思い出せない人です。

子を捨てた親の常として、実母については悪い話しか聞いていませんが、話半分に聞いていました。
実母がいなくても惜しみない愛情をかけて育ててくれた祖母がいましたし、父も相当問題の多い人でしたので、恨みに思うなんてことはありませんでした。
また同時に思慕の念というものも微塵もなくて、会いたいと思ったことも正直ありませんでした。

一昨年に父が亡くなった時に数分電話で話したのですが、お前はどうしているかという問いかけはなく、そんなもんだろうなと淋しくも思いませんでした。
私にとって実母はただ産んでくれただけの人でしかなかったのです。

そんな実母の訃報を聞いたのは昨年12月の半ばでした。
亡くなったのは11月18日とのことだったので、一ヶ月近くたってからの知らせでした。
彼女は別に家族をもうけて、知らぬ土地で暮らしていると聞いていたので、そこでおくられたのだろうと思っていましたから、これもそんなもんだろうと受け止めました。冷たい話ですが、なんら感慨にふけることなく淡々としたものでした。

最期の地となったのは島根県江津市。
失礼ながら初めて聞く地名でした。
高知県生まれ(ついさっき知りましたが南国市の五台山のふもとにある介良村出身だそうです)の彼女としてはずいぶん寒々とした土地で亡くなったんだなと思いました。

知らせをくれた方は、実母と親交のあった姫路の女性Hさんでした。
彼女によると、実母には最期を看取った男性がいるのだが、相手は高齢で籍も入れているわけではなく、同居人的な存在であるらしく、話をはしょって言えば遺骨を持て余しているとのことでした。
実母には私以外に子はなく、仕方なくこの女性が遺骨を貰い受け、無縁仏として寺に預けるのを了承してほしいという話でした。

事情は私の聞いていた話とは随分違うようでした。
高知に引き取ってくれる親戚はいないのかと聞いてみると、10代で高知を出てから親もととの交流はないらしく、連絡先すらわからないとのことでした。
伝え聞いた話では「私は貰い子だった」と言っていたそうで、なにやらややこしい事情があるようでした。

ちょっと時間が欲しいと電話を置いて一晩考えました。
いくら縁の薄かった人とはいえ、実母を無縁仏にしてよいものか…
私も子を持つ親になりましたから、やはりそれは余りに薄情だろうと思いました。
とはいえ、私の実家とは縁の切れた人ですし、継母もおりますから、ウチの家の墓に入れるわけにもいきません。

相談する形で我が家の菩提を弔っていただいているお寺さんに電話すると、そういうことなら寺で預かるから遠慮なく持って来いとのこと。
ありがたく甘えることにしました。

これが今回の旅に至った経緯です。

江津ICの横にある駐車場で実母の同居人だったS氏と落ち合いました。
近くの喫茶店で事情を聞きました。

S氏の話では、実母と暮らすようになったのが18年ほど前。
姫路のパチンコ店に勤務している頃だったそうです。
恋人という関係ではないようでしたが、情を通じた相手ではあったようです。
S氏の上司が岡山県津山でパチンコ店を独立開業することになり、誘いを受けて同地に転居する際、連れて行ってくれとのことだったので一緒に津山で暮らし始めたとのことでした。

津山のパチンコ店が数年で倒産し、S氏は江津市のパチンコ店に移ることになり、それに同行して実母も江津に移ったとのことでした。

実母はパチンコ店の寮の賄い婦のような仕事をしていたようですが、S氏の定年退職に伴い、同じパチンコ店の景品交換所を任されると、実母も一緒にその仕事をしたそうです。これが彼女の最後の職歴になりました。

昨年11月の初めに体の異常を訴えた実母は江津市内の病院にかかり、すぐさまICUに入ったそうです。
もともと長く糖尿病を患っていたようで、今回は腎臓が悪くなったとのことでした。
重篤の状態ではあったそうですが、意識はハッキリしており、医師から余命いくばくもない旨も本人が直接聞いたようです。

10日ほどしてある程度回復し、ICUを出た数日後、夜のうちに容体は急変し、誰にも看取られないまま亡くなったとのことでした。

S氏と実母は20年近く暮らしていながら、お互いの生い立ちなどはほとんど話をしてなかったそうで、誰に連絡してよいかわからぬまま荼毘に付したとのことでした。
唯一私に連絡してくれた女性にだけ電話し、葬儀に出てもらったとのことで、彼女が実母の携帯にあった私の叔父に連絡して、まわりまわって私の耳に届いたとのことでした。

実母が暮らしていた古びたアパートを訪ね、遺骨を受け取りました。
実子とはいえ縁が薄く、面影すら定かではないので、写真があれば欲しいとお願いしましたが、事情なのか性格なのか写真を撮られるのを極端に嫌がったらしく、グループで映ったスナップ写真に辛うじて顔の造作がわかる写真一枚きりしか残っていませんでした。

給油と土産を求めるためにS氏の先導で江津から浜田市の道の駅まで行きました。
道中の景色はなかなか瀬戸内の人間からすると奇観で、国道9号線沿いの猫の額のような細長い市街地に日本海の黒い波が迫り、すぐそばには鉄道模型のようにこじんまり盛られた山陰線の線路が走っていました。山側には風力発電の巨大なプロペラが4つ、スケール感のミスマッチをもたらしながらそびえ立ち、パースの狂ったシュールな風景画のような印象でした。

姫路に帰り着いたのが夜8時を回っていました。
スピリチュアルなものを信じない人間なのですが、後部座席になにやら気配を感じながらの帰り道でした。疲れてたんでしょうね。

一夜明けた今日先ほど、納骨を済ませました。
参列したのは私とヨメとムスメの三人と、実母の訃報を一統で初めて聞いた叔父とそれを知らせてくれたHさんの5人でした。

これで父に続き実母をおくり終えました。
私の直系の尊属はすべて鬼籍に入りました。
それ自体はちょっと淋しく、そういう年になったんだなとしんみり思う次第です。