【シェリーの歴史7】スペイン・イスラムの成立とシェリシュの町 | シェリーそそいで生ハムきって

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ターリク率いるムーア人(イスラム軍の主力だったベルベル人やアラブ人の総称)の軍勢は小勢力だったが、イベリア半島を瞬く間に席巻していきました。
気を強くしたイスラム帝国北アフリカ総督ムーアも自ら1万8千の兵を率いて合流、国王を失って混乱する西ゴート王国軍は蹴散らされ、怒涛の如く突き進むイスラム軍がピレネー山脈に行く手を塞がれるまでに要した時間はわずか二年でした。
すでにイベリア半島の大部分が彼らの手中に落ちました。

唯一、北部アストゥリアスの山岳地帯に籠ったペラヨ率いるキリスト教徒の一群が、ゲリラ戦を続けていましたが、それももはや時間の問題と思われていました。

あと一息で完全にイベリア半島を占拠できる戦況となっていましたが、ここでイスラム帝国首都ダマスカスからムーサとターリクに突然の帰還命令が届きます。
二人はきっと無念に思ったでしょうが、取るに足らないキリスト教徒の小勢力は捨て置かれ、かろうじて命脈をつなぐことになります。
将来これが埋め火となり、レコンキスタの烽火に発展していくことになるのですが、それはまた別のお話。

ムーア人は征服した領地をアル・アンダンスを名づけ、スペイン・イスラムの時代が到来しました。

イスラム帝国の政変で、政権はウマイヤ家からアッバース家に移りますが、イベリア半島ではウマイヤ家のアブドゥル・ラーマンが太守(アミール)を名乗り、後ウマイヤ朝(756-1031)が成立、コルドバに首都を置きました。

彼らは賢明な支配者であり、すばらしい繁栄と文化の時代をアンダルシア史に刻みました。
王城コルドバの賑わいは殷賑を極め、人口だけでも当時のロンドンの五倍のという大都会に成長しました。緻密な構造とデコレーションのコルドバの世界遺産メスキータはそれを物語ります。

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周辺都市グラナダのアルハンブラ宮殿やセビージャのアルカーサルもまた、イスラム時代が高度に発達した建築技術や芸術的にもユニークは時代だったことの証明でしょう。

ヘレスは「シェリシュ」と名を変え、ムーア人支配の恩恵を受け繁栄し発展した町です。
著名な地理学者ムハンマド・アル=イドリースィーはシチリア国王ルッジェーロ二世に招かれ世界地図(Mappae Arabicae, Idrisi)を作成しており、その写しがオックスフォード大学のボドリアン図書館に保管されていますが、そこにシェリシュの名前を見つけることができます。
ちなみに「シェリー」という名前はこの「シェリシュ」に由来するへレスの英語名です。

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シェリシュはパワフルで平均的な規模の町であり、周囲は壁に囲まれている。
その町を囲む一帯は美しく、ブドウ畑やオリーブの木、イチジクの木に覆われている


地理学者のIbn Abd al-Mun'im al Himyari(人名ですが読めませんw)は著書の「Ar-rawd al Mitar(アル=ラウド・アル・ミターかな?)」にそう記しました。

現在でもへレス市街では記述されたシェリシュの城壁の遺構を見ることができます。
エミリオ・ルスタウ社のボデガ(貯蔵熟成庫)や旧ドメック社のエル・モリーノという建造物がそれです。

<つづく>