転載記事です 【人生は一度きりではない 】 | かめのしっぽ☆'s ふらっと ふらいと ~旅ときどき日常~

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大好きな飛行機や旅のこと
飼い猫や家族ネタも盛り込んだ記事を、日々、綴ってまいります。
読んで大笑いしていただけたら、幸いです。

以前、通っていたキリスト教会の中でも
いろいろ語られていた「テーマ」のひとつでもあるのだけれど
死後のこと・・・
話を聞くたびに、もやもやっとした思いが湧いてきて
そうした「既存の解釈」「既存の概念」というものを
私はすんなりと受け入れることが出来ませんでした。

この記事に出会い、内容に触れたことで
とってもスッキリしました。

教会というところでこんな話(↓)を聞くのは、もう私はご免です。
あまりにも乱暴なやり方だな、と感じましたので。

「人生、一度きり!
 自分がイエス様を信じて洗礼を受けたら
 次はあなたの大切な家族や友人たちを、教会に連れて来なさい。
 どんどんイエス様の話をして、福音を受け入れてくれるように
 熱心に伝道しなさい。
 イエス様を信じれば天国に行けますが
 信じないと、地獄行きですよ。
 地獄に行くと、永遠の炎の中に投げ込まれます。
 それでいいのですか?
 もう、時間はありませんよ。明日、終末が来るかもしれないのですから。
 さぁ、どんどん伝道しなさい!」


【転載元】

「私はキリストにあるひとりの人を知っています。
 この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。
 肉体を離れてであったか、それも知りません。
 神はご存じです、――第三の天にまで引き上げられました。
 私はこの人が、――それが肉体のままであったか
 肉体を離れてであったかは知りません。
 神はご存じです、―― パラダイスに引き上げられて
 人間には語ることを許されていない
 口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています」
(『Ⅱコリント』12:2~4)

 ここでパウロが言っている「あるひとりの人」とは
パウロ自身であることは、一般的にも断定されている。
確かに、自分を誇らないために、このように言っているのだろう。

 まあ、それが誰であるかは重要な問題ではなく
この「第三の天」とは何か、である。
これについては、定説はなく、また、多くの牧師たち
クリスチャンたちも、見て見ないふりをしている。

 これは、天国ではないことは間違いない。
天国ならば、第一、第二、などという区別があるはずがない。
さらに、「パラダイス」という言葉が注目される。
イエス様が、共に十字架につけられた人に
「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(『ルカ』23:43)
と言われたことと結びつけるならば
やはりこのパラダイスも、天国ではない。

 イエス様は、もちろん霊の世界において
自由にあらゆる霊の世界を行き来することがおできになるはずである。
この共に十字架にかけられた人を
パラダイスという死後の世界に連れて行かれた、ということである。

 このようなことを見るならば、イエス様を信じて救われた者は
死後、一度眠りについて、新しい天と地が造られる時に目覚めて
その天国に入れられる、と考えていることは
余りにも幼稚な、浅い考えだと言わざるを得ない。
そもそも、いくら救われているとはいえ
適当な信仰生活を送った者と、殉教までするほどの働きをした人とが
死後、そのまま同じ天国に入る、と言うこと自体がおかしいではないか。
ある牧師などは、このことを
「天国に入っても、熱心に信仰生活をしていなかった人は
恥ずかしくて、神様を見ることさえできないのです」などと語っていたが
そのようなところは、天国ではない。
天国に差別や恥ずかしさなどがあるわけがない。

 私は確信するに至った。
イエス様を信じて救われた者は
死後、その霊的レベルに応じた霊の世界に引き上げられるのである。
それは天国ではなく、天国に至る準備段階のような霊の世界で
パウロが「第三の」と言ったように、その霊の世界には無数の段階があり
霊のレベルに応じてその世界に行くのである。
その世界は、もちろん、いま私たちが生きている世界に比べれば
パラダイスである。楽園である。
ただ、まだ天国ではないので、
その者が、それでも自分の意志でイエス様の救いを否定してしまえば
救いは取り消されれるという危険がないわけでもない。
しかし、すでにパラダイスに引き上げられているのであるから
その可能性は無限に近くゼロである。
しかし、ないわけではない、といところで、天国ではないのである。

 一方、救われないで死んだ者は
再びこの世に生まれ変わらねばならないと私は考える。
そこでまた、イエス様を信じて救われるチャンスはあるのである。
しかし、これはあくまでも、完全な生まれ変わりであり
いわゆるセカンドチャンスと言うようなことではない。

 人生は一度きりではない。
救われた人は救われた人の、救われていない人は救われていない人の
「次の生(しょう)」がある。
 このようなことに目覚めれば
イエス様を全く知ることができない環境に生きた人が
死んだらどうなるか、また、イエス様の名前くらいは知っていても
福音そのものの内容を良く知らないために信ぜず
そのまま死んだ人がどうなるか、ということについての疑問も解決する。

 一般の牧師、クリスチャンなどは
このような人々も、確かにイエス様を信じていないのだから
地獄である、と言っている。
この地獄については、後ほど、また述べたいと思っているので
それは後の記事にまわすが
とにかく、このような考えは間違っている。

もちろん意識的にイエス様を否定する
いわゆる反キリストは滅ぼされて当然であるが
知らない、あるいは、よく福音を理解していないために
イエス様を信じないまま死んだ人が
そのまま地獄、滅びである、ということは、あり得ない。

もしそうならば、神様は随分とひどい方であると言わざるを得ない。
そのような環境に生まれたのは、その者のせいではないからだ。
もちろん、神様はそのようなひどいことをされる方ではない。
 
 人は、その者の霊的レベルに応じて、次の世界に生まれ変わるのである。
したがって、前の世界もあるわけである。
このような霊的事実に、私は目が開かれた。
私は、目の前に、水平線まで続く広大な大海原を
いつも目にしているような、大きな解放感と
さらに霊的世界に対する冒険心のような思いが湧いて来るのを覚えている。

 このような霊の世界は、パウロが言っているように
今のこの世に生きていながらも
霊的体験によって知ることができるのである。



まさに希望に満ちた、体験に基づく力強い内容ですね。
素直に私も、Amen!と受け入れられます。