気が済まないから・・・と | かめのしっぽ☆'s ふらっと ふらいと ~旅ときどき日常~

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Yahooブログから引越して来た、かめのしっぽ☆です。

大好きな飛行機や旅のこと
飼い猫や家族ネタも盛り込んだ記事を、日々、綴ってまいります。
読んで大笑いしていただけたら、幸いです。

昨日、日曜日。
無事に教会の礼拝に行くことが出来ました。

今月は第2週目、3週目が体調不良で
床に伏せる日が続き
予定の全キャンセル、という憂き目に遭ってしまい
本当に辛かったです。。。

身体も、気分的にも、ね。

でも、おかげさまで
食欲が戻って来た途端、ちゃんと元気になりまして
やはり、回復にも「時」があるのを感じました。

肉の糧でさえ、そうなのですから
やはり、私にとっては礼拝や集会に行かれない、というのは
まさに霊の糧が得られない状態になるので
1回休んでしまうと、辛くてツラくて。

まさに、2週目の集会をもって
1年以上かけて、コツコツと解き明かされてきた箴言が終わり
先週から、また『ヨハネの福音書』が始まりました。

といっても、勿論、今までも
御言葉は、霊の次元において解き明かし
受ける側も霊的に解釈する、ことがなされてきたけれど

今回は、別の角度から斬り込みが入れられ
もっとワイドな視点からの
斬新な解き明かしがメッセージされ始めました。

どうしても、教会の礼拝って
集う信徒たちは、その場にいるだけで
「礼拝に出た」という満足感や義務を果たした感じになり
主題説教にしても、講解説教にしても
講壇から語られるメッセージを、一方的に聞くだけ・・・
になりがちになってしまうのでは、と思うのよ。

私も元の教会では、賛美奉仕はしたけれど
がっちり!役割や当番が決まっていたから
それ以上のことは、かえって、してはならなかったからね。
(いろいろと口を出してくるメンドクサイ人って
ちゃーんと教会にもいるのよね~~~💦 ったく!)

だから、礼拝が終わった直後に
「今日の礼拝メッセージ、凄くよくわかりましたね」なんて
うっかり言おうものなら
「もう、何度も聞いてるから知ってる」だの
「あら、あんまり覚えてないわ~」だの
「居眠りしてたから聞いてない」だの(←オイ!)
感動、薄っ。。。とビックリ!したことがありました。

礼拝は、習慣で行くものではなく
やはり、貪欲に自らのたましいの糧を得るために
それらを勝ち取りに行き
大いに三位一体なる神様との交わりをする場、だから

賛美だって、導きの中での新しい歌をどんどん覚えて
止むことなく主に捧げたい!って思うのが当然だろうし
御言葉も、順番通りに学んで、しっかりそこにある真理を
神様からの知恵としていただきたい!って思うのが
信仰者においては、凄く当然のことって思っていたのよね。

教会からいただいてきた、神様からの恵み
もっともっと、教会は違っても
本当にイエス様を信じ、神様の真理を求めている人たちと
分かち合いたい!って思っているのに・・・

同じ神様を信じている、とはいっても
何でなのか「教会」が違うと
同じ聖書を用いていても、解釈の違いがあることに気づき
そうした思いが、萎んでしまうことばかりです。

そして時には、自分たちの「常識」に当てはまらないと
クリスチャンって、何なの?と思うくらい
「非常識」なことを平気でやってきたりする人もいて
呆れてしまうこともあります。

今回の礼拝メッセージを聴きながら
しみじみ思ったのは
ニンゲン、やはり、肉体がある以上
その本質はついて回るから
イエス様の救いに与かったなら
もはや、世の次元ではなく、神様の次元の価値基準を
しっかり学ばないと意味がない、ってこと。

霊と肉とを、しっかり切り離して考えないと
何とも妙な生き様を、世にさらすことになるんだな~と
ちょいと恐ろしくなりました。

そんな状態で、いくら「教会は楽しいところです」とか
「みんな仲がいいですよ」なんて言ってみても
余程、ノンクリスチャンの方々のほうが
事実を見抜いていますから、ね。

イエス様の時代の宗教的指導者と呼ばれていた人たちとて
自分たちの正しさを基準に、合致すれば正しいとし
範疇外だとすれば悪、とした・・・。

悪、とされたら、ぶっちゃけ
その者を世から抹消することを考える。
いや、実際はそこまでは実行せずとも(←当り前だ!)
教会から追い出したり、関わりを断ち切ろうとしたり
私も元の教会で、「聖霊」という言葉を口にしただけで
結果的には、教会から追い出されたからね。

後から聞いたら、その教会では
異言も癒しも奇跡も認めておらず
結局は、それって、霊の見分けが出来なかったことで
悪霊と知らずに交わった信徒がトラブルを起こし
教会をごちゃごちゃにした、という事実があったらしくてね。

教会内のトラブルを防ぐには
霊に関することに一切触れなければ
何も起こらないだろうから
それがいい~、そうしよう!ということになったのか
なんとも、暴力的な決め方だな~と思ったことも思い出しちゃった。

でも、ホントにそれでいいの?と思ってしまうんですよね。

元の教会を出された私が
その後、今の教会に導かれ
それはそれは恵まれた信仰生活を送っている、という事実が
私を追い出した元の教会の、力ある立場の方々の耳に入れば
きっといい気持ちはしないはず。

ただ、ね。
少なくとも、私は自分の体験しか語れないけど
信仰を持つものに対し、神様の正しさ以外のものを基準に裁き
意地悪や攻撃をしてきた人たちって

ある日、ビックリするような方法で
おかしなダメージを受けていったのです。

私は何もしなくても、神様が時をもって
きちんとお取り扱い下さるのだな、と
かえって畏怖の念を抱いてしまいました。


私ががんになったのも
体調の回復が、しっかりと見込まれないのも
何か隠している罪があるからなのでは、と
かつて、こそっと陰で口にした人もいた様だけど

私ががんになったのは、イエス様を信じる前のこと。
神様を真実に信じているクリスチャンだったら
平気でそんなことは言えないはずです。

日本に福音が広まらない理由・・・
ホントは、そうしたところに原因があるとは
思いませんか?

正しく御言葉が解き明かされないと
教会の本来の働きも、どんどん出来なくされてしまうし
働き人も潰されていくのでは、と
一信仰者として、思ってしまうのです。

自分と合わないから、気が済むまで相手を貶める、ということも
教会内では、ホントはやってはならないことでしょう。
福音書に登場する、宗教的指導者たちの姿からも
自分がされたことを含め、読み取れることは多いですね。

真の礼拝者たちが、ひとりでも多く起こされますようにと願っています。