七つの教会への書信 【エペソ:初めの愛】 | かめのしっぽ☆'s ふらっと ふらいと ~旅ときどき日常~

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【ヨハネの黙示録2章1節~29節】 vol.1
(教会でいただいたメッセージプリントを抜粋・引用しながら綴っています)
 
 
教会の礼拝や集会で聴く、御言葉からのメッセージは
本当に興味深い。
御言葉の解き明かしの賜物が与えられたメッセンジャーの口を通して
正しく意味を解したメッセージを聴くことは
信仰者にとって、物凄く大切なこと。
 
それらを豊かな霊的糧として、私たちは養われていくのだからね。 
 
 
さて、島流しになっていたパトモスで
ヨハネが聞いた、大きな声が言ったこと。
それは、ヨハネがこれから見ることを、巻き物に記して
七つの教会に書き送れ、という内容だった。
 
 ・ エペソ
 ・ スミルナ
 ・ ペルガモ
 ・ テアテラ 
 ・ サルデス
 ・ フィラデルフィヤ
 ・ ラオデキヤ
 
七つの教会への書信。
これらは、単なる手紙ではなく、霊を介する、霊による御言葉。
いわば、黙示録の中にある啓示の部分。
つまり、語られたことを知り、受け取った教会側の対応によって
未来が変化していく、というものだった。
 
教会に遣わされているそれぞれの御使い宛てになっている書信。
イエス様 右矢印 御使い という形ではなく
イエス様 右矢印 ヨハネ 右矢印 御使い 右矢印 教会のリーダーへ、と伝わる形になっており
ヨハネという人間がそこに介されたのも
「書き記す」ことによって、人間の目に見える形で
後世に広く御言葉が残されるため、という大切な目的がそこにあったんだね
 
 
エペソ教会
http://kaze-sora.com/sozai/line/li_rainbow1.gif 
エペソにある教会の御使いに書き送れ。
『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
 
「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。
また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず
使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
 
あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
 
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
 
それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。
もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って
あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
 
しかし、あなたにはこのことがある。
あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
 
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』
                                      (黙示録2:1~7) 
エペソはアジヤ州最大の都市。
ここでパウロは、3年に渡る伝道をした。
もっとも、福音を聞いても、全員が信じる・・・ということはないけれど
エペソの街の人々全員が福音を聞き
この教会が誕生した、って、凄いことだと思うよ。
 
エペソ教会には、教会内部の問題があった。
 
教会を守られ、その御使いを支配されるイエス様が
エペソ教会の苦難に対する労苦と忍耐を賞賛された。
その労苦と忍耐は、偽の使徒を通しての誤りの教えだった。
 
 『私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て
 群れを荒らし回ることを、私は知っています。
 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って
 弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう 』
                         (使徒の働き20:29.30)
 
第3時伝道旅行の時に、パウロはエペソ教会に臨むであろう苦難を
述べているけれど
様々な間違った教えが教会内に持ち込まれ
内部からも曲がったことが起こり、教会が荒らされるようになるという
まさに、その通りのことが起こっていたと考えられる。
 
賞賛と共に、厳しい非難の言葉が述べられた。
 
『 しかし、あなたには非難すべきことがある。
  あなたは初めの愛から離れてしまった 』 (2:4)
 
初めの愛・・・。
聖書で説く「愛」とは、神様との交わりから来るもの。
「初めの愛」とは、救いの体験・新生体験と
その喜びの中での主との交わりのこと
 
いわば、異端といった誤った教えなどとの戦いが激しかったために
エペソ教会の人たちは、霊的な間違いを見抜くことには熱心だったけれど
かえって、もっとも大切な、主との交わりが
おろそかになってしまった、ということが考えられるらしい。
 
うーん。
それって、凄くオソロシイことだと思う。
 
私たち信仰者は、イエス様を第一として生きていくのだから
霊的な間違いを見抜くこと > 主との交わり
という状態になってしまったら、向かっていく方向が違ってしまう。
 
つまりは、それを悔い改めよ、ということなんだね。
 
緊張を強いられ、互いにさばきあい
ぎすぎすした雰囲気に満ちている教会…なんて、行きたくないもの。
いや、行きたくない、とかいう次元のハナシではなく
そんな状況だったら、「教会」 が教会として成り立たなくなる。
まわりにばかり目が行き、主との交わりをおろそかにしていたら、ね。
 
信仰において、求めるものの方向が違うということを悔い改めないなら
『 わたしは、あなたのところに行って
 あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう』 (2:5)
と、イエス様はおっしゃる
 
燭台を取り外す・・・。
どの教会においても、「教会」である限り注がれている
主の守りと導きをなくす、という意味だそうで
ホントに主がそうなさったら、その瞬間から、教会は成り立って行かなくなる。
 
・・・・・・コワッ
 
 
『 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにある
 いのちの木の実を食べさせよう 』 (2:7)
 
神様から離れる前の人間は、エデンの園で
いのちの木の実を食べていた。
食べることを禁じられていたのは、善悪の知識の木の実だけ・・・。
 
そっか。
アダムとエバが、エデンの園を追放されたのも
神様の御愛のあらわれのひとつ、だったんだね。
「罪」をおかした体で、いのちの木の実を食べてしまうと
永遠に生かされてしまう、から。
 
罪をおかす前の人間の状態に回復させるために
イエス様は十字架にかかられた。
ご自分の方に向き直させ
世とは違う次元に目を向けさせるために。
 
 
人格を持っておられるイエス様との出会い。
イエス様を信じ、受け入れたことで変えられた価値観と生き方。
神様を知らず、神様から離れて生きてきた、わが罪
その全ての罪がゆるされた、ということを身をもって体験したあの時。。。
 
忘れるまい、「初めの愛」 の正しい意味と
新生体験をした時の喜び
そして、その中での主との豊かな交わりがなされてきたことを。
 
 
【 Blessed Assurance  】